2011年8月18日木曜日

恵比寿にてVol.8「切符」

 「物干から眺める夕まぐれの景色が好きだった。
 恵比寿の町を縁取るように、小高い丘がめぐっている。...中略。...そこは少し前まで進駐軍が接収しており、兵隊の姿はもうなかったが、町なかの中古家具屋やネオン管のまたたく酒場の窓には、まだ彼らの残り香が感じられた。」

浅田次郎著短編集「夕映え天使」(新潮文庫)収蔵「切符」の冒頭から引用。
今日で恵比寿の歯科医へ行くのが最後となる。3月の早春から通い始めて気がつけば蝉の大合唱の季節となった。冷房の効いた電車に乗り込むやいなや、先日購入した浅田次郎のこの文庫本の栞を引いた。
躯中から急速に汗が引くのと同時に、同じ速度でこの本に引き込まれ、浅田さんの文章世界に落ちてゆく自分を感じる。小説の活字を追うことの安心感と安堵感、爽快感と期待感は浅田次郎の小説は他の追随を許さない。どんな長編を読んでも最後の頁が近づくにつれ「やっと読み終える」のではなく「もう終わってしまうのか」との寂寞をすら感じてしまうほどだ。そんな浅田さんの短編集。1964年東京オリンピック当時の恵比寿を舞台にした小説。1964年といえば筆者はやっと幼稚園か小学生であった。恵比寿ということもあり増々引き込まれる。もう少し抜粋引用したい。

「東の空からゆっくりと、夜のしじまの忍び寄る様子も、広志はこの町にきて初めて見た。祖父の家は明治通りの電車道から広尾の丘に駆け登る途中にあった。」
....筆者が22歳の結婚当時住んでいたのがまさにこの文章のくだりにある『広尾の丘に駆け登る』坂の付近であった。


「『ひとつ聞いていいかな』と八千代さんは金盥(かなだらい)に洗濯物を畳み入れながら訊(たず)ねた。『ヒロシくんのおとうさんとおかあさんは、どこにいるのかな』広志は少し考えねばならなかった。」
.....小学生の広志は実の父母が離婚し、祖父に引き取られて二人暮らしの生活である。「広志」とはほとんど浅田さんの子どもの頃をモデルにしている。小学校6年くらいか。祖父の言葉が浅田お得意の江戸弁べらんめえ調で語られる。


「おめえのおやじはろくでなしで、商売をつぶして借金をこさえたうえに、女と逃げァがった。女手ひとつでガキを育てるのァ大変(てえへん)だろうから、じいちゃんが面倒を見ることにしたんだが、今度はそのおふくろに男ができたとよ。所帯を持つからおめえを欲しいと言って来ァがったが、いくらなんだってそいつァ虫のいい話だ。...中略...おめえには文句もあろうが、文句なら一丁前になってからいくらでも言え。今は了簡(りょうけん)せえ------。」

戦争で片足を失った一途で頑固で不器用で、それでいて言葉には出さずとも人として優しい祖父。口数は少ないが口ベタではない。
二階を間借りしている子どものいない若夫婦の綺麗な「おばさん」。やがて亭主と別れることになる八千代さん。
両親の勝手な理由で祖父との同居を余儀なくされつつも、多感な感情を胸に、子どもとしての成長期のひとつの壁を越える主人公の小学生広志。
これに東京オリンピックのアベベのエピソードが絡み、同級生の仲良しの女の子が実は朝鮮人だったことや、少年の淡い恋心、別離の悲哀、戦争の心の傷跡などの様々な要素が、森閑とした森に流れる清流のように、澱みなく渾然一体となって心にしみる逸品である。

筆者は文芸評論家ではない。ましてや人さまに自分の好きな本や映画や音楽を語ることはあっても、無理に奨めたり強要したりするのは本意ではない。こんな話を書いたのは大好きな浅田次郎と大好きな恵比寿とが偶然邂逅し、更に自分が幼かったあの頃の、遠い欠落した記憶の穴を埋めてくれるように、日本や東京の空気感はこうだったのかと、改めて想い巡らせてもらったからである。

最後の恵比寿での歯科治療が終わり、かつて住んでいた「町」の付近、いやもう「街」になってしまったあたりを、この炎天下しばらく徘徊してから帰ったのは言うまでもない。
最後にもうひとつ引用を許されたい。

「オート三輪の後を、広志と千香子はしばらく走った。...中略....八千代さんと菊の花が遠ざかっていく。
『さよなら、さよなら』
息を吐くたびに、広志は叫んだ。叫ぶ声はやがて呟(つぶや)きになり、車が夕闇に紛れてしまうと、広志は『さよなら』と言い続けながら泣いた」
このあと母のくれた「切符」のラストシーンの一文があるのだけれど、それは書けない。書いちゃいけない。
「泣かせの次郎」の真骨頂である。

※本来非営利的個人的ブログであっても、出版物の引用を出版社の許諾なしに用いることは...たぶん、おそらく...いけないことなのでしょう。
でも何か割り切れないものを胸に抱えつつ、えいやっとばかりに引用しちゃいます。世の中のほとんどのWebサイトではみんな承諾無しで勝手にやってるから、ここだって許されるだろうという気持ちではありません。出版社の方がご覧でしたら、叱咤またはアドバイスのコメントいただけたら嬉しい限りです。せめてもの礼儀として新潮社のクレジットは入れておきました。

※昨晩このブログをUPしようとしたら、全く入力出来ない状態に。仕方なくMacのテキストエディットで書いて保存。今もまだBlogger.comではトラブル復旧出来ず。天下のGoogle傘下のブログサービスサイトにしては何もコメントがなく不親切な対応。ヘルプフォーラムで検索してみるとこのトラブル他国でも同様のようです。ただ、書き込む際のエディターを変えてやればなんとかUP出来るとの記事を読み、やっとのことでいつもと違うシステムを利用し書きました。故に上のブログ内の「今日」とは昨日の8月17日(水)のことです。......(18日記)
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