2016年6月11日土曜日

小説「月に降る雨」5-A

いつものことなのだが、午後一のプレゼンには大抵昼飯は抜きになってしまうのが常だ。慌ただしくMacの電源を落とし龍一は言った。
「恭子ちゃんそろそろ行くよ」
「はい」そう返事した鈴木恭子を振り返ると、すでに重そうなA2サイズのプレゼンボード十数枚を抱え、設計部の部屋を出て行こうとするところだった。エレベーター前で追いつくと、それは俺が持つよと言って龍一は恭子から荷物を取り上げた。
「神島さんて優しいんですね。これ昨日徹夜で仕上げたボードでしょ。私は十時で帰りましたけど」
「えっ、いや、その、てゆうか、そんなの男が持つの当たり前だろ」龍一は恭子の少しハスキーな声に胸の奥がうろたえるのを感じた。
「今日のプレゼンは月地と梅川とはヒルズで直接待ち合わせだから」
エレベーターの中で恭子の女の匂いに鼻腔をくすぐられながら、一階につき扉が開くやいなや言った。
「やばいな。ダッシュで行くぞ」

六本木ヒルズに着くとすでに月地と梅川は待っていた。
「梅川、悪りい。遅れてしまった」
「遅っせえよ。すぐ行こう」と、梅川が言うと一同四人でクライアントの待つ店に行った。そこはヒルズが開店当初から出店している飲食店で、以前龍一たちのデザインがコンペで勝って設計を担当したのだった。今回は全面リニュアルするにあたり、特命での指名となった。

龍一が恵比寿にある商業施設の設計施工の会社「株式会社T&D」に就職したのは十九年前。今は設計部長となった孝雄に面接で採用されて、五年前に龍一はチーフデザイナーとなった。月地信介は二十九歳の若手ではあるが、龍一にはない斬新な視点からアプローチする力を持ち、クライアントとの渉外能力も併せ持った後輩だ。年下ではあるが龍一は彼の実力は十分に認めていた。営業の梅川は四十一歳、龍一と同い年で同期入社。やり手の営業マンよろしく、時には大風呂敷を広げて嘘八百を並べてでも仕事を取りに行く場面にはひやひやさせられるが、社内でも一番の稼ぎ頭だった。また個人的にも飲み友だちであり、互いの家を行き来したりもする仲である。

ヒルズでのプレゼンが終わった。四人で喫茶店に入りミーティングという名の一服タイム。クライアントの受けは上々だったじゃないかと言えば、すかさず、
「何?暗いアンコって?」とひゃらひゃら笑う梅川。恭子のことに話が及ぶと、
「恭子ちゃん、今日このあとはどうすんの?なんつって」
と、またダジャレを言ってはにとにと笑う奴だった。
「おまえな、ウチみたいな会社だからまだ許されるけど、大企業だったらセクハラで訴えられるぞ」と笑いながら龍一が言っても、
「何、セクハラって。セックス...なんだっけ?」
信介が間に入る。
「セクシャルですよ。セクシャルハラスメント」
気負い込んで龍一も言う。
「何?誰がセクシャルな腹のメンズだって」
信介がまた突っ込む。
「うっわ、ついに出たあ、神島さんのオヤジギャグ。神島さんのダジャレって毎回ビミョーなんっすよねえ、今までさんざん聞かされたけど」
「それ知ってる。俺だって自覚症状あるよ。場がしんとなると、一瞬死にたくなるよ」
からからと一同笑った。店内の時計に目をやればすでに七時を回っていた。これから得意先と食事をする梅川と、彼女とデートの約束があるという信介と別れた。駅へ向かいながら、
「恭子ちゃんは?」
「神島さんは?」
おっ、そう来たか。
「俺は予定ないけど」
「わたしもないです」
そう来なくっちゃ。
「じゃあ、飯食って帰るか」
「はい。いいですね」
六本木でしばらく店を探していると龍一の尻のポケットが震えた。
「はい、神島です」
「久しぶりだね、村井です」
村井は上場企業の役員で、以前龍一がそこのエントランスホールを設計した時以来の付き合いで、仕事にはつながらないがたまに一緒に酒を飲む仲だった。仕事抜きでも個人的な付き合いがあった。
「ちょっと紹介したい店とそこの主人がいるから、急なんだけどさ、これから晴海まで来れない?」
龍一は電話を耳に当てながら横目で恭子を見やり迷った。どうしよう。...まいっか。
「わかりました、今から伺います。ただし若い美人の連れがいるんですが、一緒でもいいですか」
「それはなおさら結構だね」
恭子に簡単に訳を話すと、一瞬瞳の奥に失望の色が宿った気がしたが、にっこりしながらぜひにと即答した。

タクシーを拾って晴海の教えられた店の前に着くと、欄間に掲げられた分厚い欅の無垢材の看板には『輿路』(こしじ)と彫られてあった。
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