2016年6月14日火曜日

小説「月に降る雨」5-B

「それにしてもしばらくぶりだね、神島さん」長身にスーツを着込んだ村井が柔和な笑顔を向けながら言った。
「いえいえ、こちらこそご無沙汰してまして。村井さんも相変わらずお忙しいですか」
「いやあ、そうでもないよ。私も来年は定年でね」
「えっ、もうそんなお年でしたっけ」
恭子も全然見えないですね、などとリップサービスとも本音ともつかないお愛想を言い、そんな他愛もない会話が続いた頃、村井がそろそろ暇になったかなと言って立上がり、厨房のほうへ立ち去った。

2020年東京オリンピックに向けて建設の槌音高い、晴海に林立する高層マンションの一角にその店はあった。
和食の店でどの料理もひと手間ひと工夫がほどこされており、主人のこだわりが感じられてうまかった。店内は重厚な造りで古材の柱や梁を磨き上げ、染色は一切せずにマテリアルの素材感をそのまま生かしている反面、ステンレスバイブレーション仕上げのパネルを左官の壁面に大胆に埋め込んだり、壁と壁の出隅(でずみ)で色の切り返しをしたり、間接照明とピンスポだけのメリハリのある空間造りがなされていた。恭子にもわかるように解説しながらしばらく酒と肴を楽しんだ。
「恭子ちゃん、窮屈してない?一応お客さんだからな。でもあの人年下の俺なんかにも丁寧体でしゃべってるけど、根はすごくフランクな人だから、肩の力抜いちゃっていいよ」
「楽しんでますよ、大丈夫です。素敵な方ですね。あんな方とも半分飲み友だちだなんて、神島さんがうらやましいです」
「うん。半分どころか九十七.四%くらいは年上の友だちってとこだな」
恭子が店内を見渡すと「あっ」と、ちいさな声をもらした。恭子の視線の先へ目を向けると周囲の客とはあきらかに異彩を放つ巨躯の男がいた。剃髪の坊主頭に加えその巨漢を見れば、誰しもすぐにそれとわかる老齢の有名男優だった。確か黒澤明の映画にも出てるし高倉健とも共演している。最近はほとんど見かけなくなったがその存在感のオーラはさすがだった。強面(こわもて)を売りにした性格俳優だが、その表情を盗み見ると、目が可愛らしくそのギャップに龍一は思わず相好を崩した。
「名前なんだっけ、恭子ちゃん。あの俳優」
いたずらっぽい目をして恭子が返した。
「えっ。映画好きの神島さん、どうしたんですか、あんな有名な人の名前知らないんですかあ」
恭子は絶対隠れSだな、こいつ。
「違うって。知ってるけど思い出せないだけなの。四十歳も過ぎると百年前に食べた昼飯だって思い出せないんだからさあ」
「えっ凄いっ!百年前のお昼ご飯食べたことあるんですね。だったら今四十じゃなくって百歳以上ですよね。そんなお爺さんだとは知らなかったなあ」
普段は龍一には敬語で話すのだが、酒が入ったせいか少しくだけた調子になって、ジョークにジョークで返す恭子の口調に龍一はなぜだか妙に嬉しくなった。
「あの人、相間(そうま)健ですよ」
思い出した。高倉健に憧れて芸名を本名の和紀から健にしたと雑誌で読んだことがある。連れの奇麗な二十代の女性も女優なんだろうか。先日レンタルDVDで観たスター・ウォーズのデイジー・リドリー似のセクシーな女だった。
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