2016年6月16日木曜日

小説「月に降る雨」5-C

しばらくすると店の主人を連れて村井が戻って来た。年齢は龍一と村井のちょうど中間の五十前後だろうか。村井が酒を薦めるとじゃあ一杯だけと言って焼酎のストレートを頼んだ。
「初めまして、T&Dの神島です。こちらは設計部のの鈴木といいます」
「初めまして鈴木と申します」
「いらっしゃいませ、輿路です」
三人で名刺交換を済ませると、龍一はまず料理の旨さを賞賛し更に商売柄、店のデザインを評価する話をした。村井が言うにはこの店は雑誌にも載っているくらいの隠れ家的な名店なのだそうだ。
「雑誌に載ったらちっとも隠れ家でもなんでもなくなるけどね」と言って輿路も目尻を下げる。龍一も思い出した。恵比寿の焼き鳥屋のオヤジに聞いたことがある。女性誌の取材に応じて雑誌に載ったとたんにギャルが押し寄せて、一時は売り上げが伸びたのだが、それまで来てくれていた常連客があっという間に離れて行ってしまった。こんな騒がしい店は嫌だよと言われて。若い女性客は数週間もするとすぐに来なくなり、それから元の常連客が戻ってくるまで三ヶ月かかったというものだった。そんな話を三人に披露し徐々にくだけた日常の会話になってきた。
「おっ、ところで神島さんのお子さんは元気?上はもういくつだっけ」
ネクタイを緩めながら村井が訊いてきた。
「上が中学二年の男で下は小五の女の子です。息子はもうオヤジのことなんか眼中になくって、学校の友だちが生活の中心になってますね。下の子もさすがにもう五年生なもので、先日冗談半分で一緒に風呂入るかと訊いたら、すっごい顔で睨まれましたよ」
「あははは。中学生か。うちも似たようなものだったよ。もう何年も昔の話だけどね」
と村井が言えば、輿路も、
「うちの息子らはもう成人したけど、娘がいないからそのへんの感覚ってわからないんだよね」
そこから村井が龍一と恭子に向き直って続けた。
「輿路さんは地元で少女野球チームの監督をやっているんですよ。夜まで店をやって翌土曜朝には公園で練習。それをもう何年も。チームの名前はなんて言うんでしたっけ」
「宮里キューティーズ。今年で10周年なんですよ。いま母たちスタッフが毎週集まって記念誌の打合やったり、式典の段取りやったりして、それはそれは大変ですわ」
龍一は驚いた。龍一の娘も地域の少年野球チームに入って野球をやっているからだった。息子は中学の部活で野球部だ。更に村井や輿路の子どもも昔は少年野球をやっていた話になり、そこへ恭子も中学までソフトボールをやっていたことが分かって、座は子どもの野球の話で大いに盛り上がったのだった。子の親は大変だがその何倍もの感動を経験出来るのだから、苦労なんて安いものだといった話にまで及んだ。親の悲喜こもごもをさんざん見てきた輿路が言った。
「神島さんも土日はやっぱり娘さんの野球に夢中ですか」
「ええ、行ける時はがっつり楽しんでますよ。野球のあとの大人同士の飲み会がこれまた楽しくって。ただこの業界残業は多いし、土日仕事になる時も珍しくないので、グランドに行けないこともよくあるんですよ。子どもが野球やりたいって言ってるのに、親の都合で頭ごなしにダメって言えなくて。グランドについて行ってやれない時は、子どもたちやチームには申し訳ないと思ってます。それでもいいのかって訊いたら、それでも野球したいって言われて。自分が行けない時はチームのお母さんたちがみんなでうちの子をサポートしてくれるんですよ。そんなチームに子どもよりも僕のほうが惚れちゃって。だから、万一娘が野球やめるって言っても絶対やめさせませんよ。ほんとにチームには感謝です。」
輿路が言った。
「うちのキューティーズもそんな感じですよ。昔の話だけど、事情があってどうしてもグランドに顔を出せない親がいたんですが、毎週その子の送り迎えを当時のコーチが毎回車でやってくれたりして」
今度は村井が言う。
「じゃあそんな時は奥さんがグランドに行ってお茶当番とかやってるんですか」
龍一はほんのちょっと逡巡した。
「あっ、いえいえ。あれ、村井さんに言ってませんでしたっけ?実は僕バツイチというかなんと言うか、奥さんいないんです」
「えっ、聞いてないよ、ほんとに?」
村井よりも驚いた顔をしたのは恭子だった。そうか彼女もまだ知らなかったのか。社内では何人も知っていることなのだが。あえてこっちから言うことでもないし。
「そうだったんですか。お子さんが二人いらっしゃるのは孝雄さんから聞いて知ってましたが、てっきり奥さんもいらっしゃるのかと...」

恭子はそのあとの二の句が継げないでいた。
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