2016年6月28日火曜日

小説「月に降る雨」8

龍一は希伊の話を静かに聞いていた。窓の外から聞こえて来る雨音は次第に大きくなってきた。細く開けていたガラス窓を閉め切るためにベッドを抜けて立ち上がった。
「希伊、寒くないか」
「うん大丈夫。早くこっちに戻って」
「わかった」
龍一がベッドに戻ると希伊は高校時代に探偵から聞かされた事実を淡々と続けた。

探偵事務所の所長はぬるくなったお茶を口にした。
「永山さん、大丈夫?」
「はい、平気です。続けて下さい」
希伊は言葉とは裏腹に表情は固かった。所長は続けた。
「いろいろ複雑にからんでいて、金沢まで行ってきました。公的機関の個人情報を調査するには限界があってね。その調査報告書には書いてないけど、私の話は多少は想像と類推も含まれているけどそれでもいいかい」
「構いません、お願いします」

金沢の小さな工務店にとっては、東京資本のようなチェーン店の物件は大きな仕事だった。若くして会社を興した氷室伊三郎は、懸命に頑張ってきたものの、経営状況は決して良くなかった。この工事が終わり入金があれば多少ひと息つけるかもしれないと考えて、実直にひたむきに仕事をした。病気がちな妻を元気づけるためにもどんなにきつい徹夜もいとわなかった。しかし理不尽な理由で入金はほとんどなかった。元来馬鹿がつくほど生真面目な性格の伊三郎は崖っぷちに立たされ、眠れない夜を過ごした。それからしばらくして伊三郎は自動車事故で死んだ。夜間ひと気のない山道で急ハンドルを切って転落死したのだった。しかし妻への遺書には真実が書かれてあった。本当は事故に見せかけた自殺だった。保険金で借金をなんとか凌いで病気治療にも当ててほしいと。どうかきみには幸せになってほしいと。そしてこんな男と一緒になった妻への謝罪の言葉が書き綴られてあった。最後の数行は文字が滲んでいた。
しかし保険契約の免責期間がまだ経過していない上に、非情にも保険会社の徹底した調査によって借金返済目的の自殺と判明し保険金はおりなかった。妻も途方に暮れて伊三郎のあとを追うことも何度も考えた。しかしそれが出来ない理由がひとつだけあった。彼女は伊三郎の子を妊娠していたのだった。伊三郎が亡くなってから分かったことだ。もし新しい命が宿ったことを知っていたら伊三郎は自殺を思いとどまったかもしれない。妻は産むことを決心した。

「このへんの調査は少し曖昧なんですが」と所長は希伊に向かって続けた。
永山剛が金沢を訪ねたのは伊三郎が亡くなってだいぶ経ってからだった。
剛は伊三郎の妻に面会を求めて会いに行った。質素なマンションの一室に置かれた遺影を前に、剛はあの時伊三郎を無下に追い返したことを悔やんだ。思いあまって青い顔をした伊三郎の妻に全てを話した。反対に彼女が重篤な病に冒されており、更に妊娠していることも知らされたのだった。
剛はその帰路、全ての責任をとろうと決心した。東京に戻ってからも何度も連絡を入れ、更に幾度か金沢に足も運んだ。剛は生活費から医療費に至るまで金銭的な援助を申し出たのだが、妻は頑として受け入れなかった。それでは伊三郎に顔向けが出来ないと。間接的とはいえ夫を自殺に追い込んだ人のお情けにすがり、妾同然のようなことはできない、そこまで私は落ちぶれてはいないと強く拒んだ。しかし、身寄りがない者同士の結婚だったために、頼りになる親類縁者はほとんどいなかった。
伊三郎が亡くなって行政の生活保護を受けながら八ヶ月が過ぎ、ちいさいけれど元気な女の子が産まれた。しかしほどなくして母は病が急変し入院することになる。その間やむなく地元の乳児院に預けることになった。
「絶対また迎えに来るからね。それまでいい子にしていてね。約束だよ」


しかしその後母は、ちいさな子と交わしたその約束を果たすことはできなかった。


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