2016年7月9日土曜日

小説「月に降る雨」11

晴海の『輿路』で酒と料理を堪能し、村井と輿路に礼を言って店を出た龍一は、さてどうしようかと腕時計を見た。まだ十時だと言うべきか、もう十時だったと言うべきか、中途半端な時間だった。だいぶ顔が赤くなった恭子に言う。
「これからどうしよっか」
「十時かあ、まだ早いですよね」
「全然早いよな」
「全く早いですよ」
「どうしようもなく早いよね」
「とんでもなく早いね」
「今世紀最大の早さだな」
「東京ドーム十個分の早さですね」
ちょっと眉間にシワを寄せて龍一は言った。
「おしっ。今から恵比寿に戻って仕事するぞ」
そのわざとらしい言い方に次の店に行くのだなと悟った恭子も右手で敬礼しながら、
「ラジャー」
晴海からタクシーをつかまえて恵比寿へ戻り、会社のあるガーデンプレイス付近を通り過ぎ恵比寿西三丁目の小さな神社のある路地裏で降りた。こじんまりとしたコンクリート打放しビルの鉄製の階段を二階へ上がり重厚なドアを開けると、いつもの無粋な顔をしたマスターがじろりと龍一たちを一瞥して言った。
「いらっしゃいませ」
ここは龍一がひとりで年に数度しか訪れないバー「Maki」だった。直線のシンプルなカウンターには客が十数人も座れば満員となるちいさなバーで、龍一は今まで誰かと来たことはなかった。いつもひとりだった。会社の連中の誰にも教えたくないバーだったし、教えられない理由があった。カウンターに座るなり恭子が言った。
「うっわ、すごいこれ、このカウンター」
「これね。京都の西陣織りの着物の帯を敷き込んで、ウレタンクリアを5ミリ厚で流し込んで固めてね、最後に12ミリのテンパライトガラスを落とし込んでハイクリアでフィックス。このカウンターの派手さとバッティングさせないために、バックバーはオーソドックスにブロンズペンミラーを貼って、オークを少しだけオイルステインしたボトル棚だけで壁面をグリッド構成、当時はLEDなんか普及してなかったからエースラインの電球色を仕込んでね。ウィスキーのボトルとLPレコードを交互に並べるのはマスターのアイディアでさ、俺もどっさり寄付したよ。ほらあのへんのビートルズとかエルトンジョンの何枚かはそうだよ。あっそうだ、この足元の真鍮のフットバーも最後まで何ミリパイで流すか悩んでさ....」
やっと恭子が話をさえぎった。
「ちょちょ、ちょっと待って下さい。私あまり設計の専門用語言われてもまだよく分からないんですけど。いやいやそれより、『悩んだ』って言いましたよね。もしかして神島さんが設計したんですか?」
「うん。会社の連中には内緒だよ」
まだ二十代の若い頃、会社に内緒で設計を引き受けたバイト仕事だった。大学時代からの友人であるマスター真壁の依頼だった。会社のクライアントの仕事をバイトでやったら大変なことになるが、友人の依頼だったし、儲けなしでやったので龍一には罪の意識はない。当時は社内コンプライアンスなどもなく、おおらかだったこともある。
マスターの真壁は黙ってグラスを拭いていた。
「あっ、いけね、酒頼むの忘れてた。この真壁ってやつはさ、こっちから話しかけないと一切しゃべらないんだよ。俺がいつも頼む酒は百も承知なのにさ。よくドラマなんかで行きつけのバーに行くとマスターが、いつものヤツですねとかなんとか言ってさ、出て来るだろ酒が。学生のころから寡黙の真壁って有名だったんだよ。なあ、真壁」
マスターはまたじろりとこちらを向いて、
「そうだっけ」
龍一はターキーのオンザロックを、恭子はカシスソーダを頼んだ。
「あれ、もしかして平井堅になっちゃうじゃんバーボンとカシスソーダ」
「ああ、あの歌かあ。私、平井堅の歌でカシスソーダが流行ったことは全く知らなくって。普通にカシスソーダが好きで、二件目の店ははいつもこれなの。」
「へえ、そうか。じゃあ、終電までにはまだ時間があるからあと百杯はいけるね」
「う~ん、いくらなんでも百杯は無理。しいて言うなら八十三杯くらいならいけるかも」
龍一はそんなことを言いながらも、恭子は今までどんな男と終電過ぎまでカシスソーダを飲んだのだろうと腹の中で思った。そんな腹の内を見透かされないようにと気分を変え、マスターと恭子を交互に見ながら学生時代の話を始めた。

龍一と真壁は同じゼミで知り合った。とにかく無表情で無口な奴だった。当然彼に友人が出来ないのも無理はなかったのだが、龍一はそんな真壁が気になって仕方なかった。ぼそぼそ会話をするうちに真壁にとって龍一は唯一の友人となった。
恭子に向き直って言った。
「こいつさ、自分からは一切話しかけないのにね、こっちから話しかけると以外としゃべるんだ。で、大学での成績はと言うと学内でもトップクラスの秀才。俺は当時夜バイトやってたから、昼しかこいつと付き合えなかったんだけどね、ある時池袋のバイト先に客としてひょっこりやってきてさ、酒を一杯だけ飲んだあと言われたのよ、バイト終わったら一緒に飲もうって。でこいつのアパートに行って朝まで飲んだんだ。あそこ下北だっけ?ぎゅんぎゅん安酒飲んでるうちに将来どうするかって話になってさ、そしたらこの秀才は俺はバーを経営するって言い出してね。当時のこの男の成績ならどんな有名企業でも就職可能だったのにな。俺は三年になる前に中退しちゃったけどさ。なあ、真壁」
「そうだっけ」
「おい、真壁。今日は一段と口数が少ないな。寡黙な深海魚が寝言を言ってるみたいだぞ」
「そうかな」
にこりともせず真壁は続けた。
「神島、おまえは逆に今日はずいぶんと饒舌じゃないか。酔っぱらったスズメが夜中に踊ってるみたいだぞ」
「相変わらず真壁の例えはイマイチだなあ」
「おまえに言われたくないよ」
寡黙な深海魚と酔ったスズメの会話ってなんて素敵なんだろうと恭子は楽しくなった。
真壁は恭子のグラスが空になったのを見て、彼女に目を合わさず、
「もう一杯いかがですか。それとも違うのにします?」

恭子が同じものを、と言う前にすでに彼の手はカシスのボトルに伸びていた。店の中には絶妙なボリュームでビートルズのThe Long And Winding Roadが流れていた。
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