2016年7月28日木曜日

小説「月に雨降る」15

サチコをアパートへ連れて帰った龍一は、希伊のいない家の空疎な匂いを感じ取り、今更ながら途方に暮れた。そんなからっぽの寒々とした部屋にいると、急に体の奥からちいさな震えがきた。悪寒(おかん)だった。風邪をひいたかなと独り言をつぶやき、急いで風呂を沸かすことにした。サチコの段ボールには猫用の缶詰が3個入っており、そのうちの一個はふたが開けられていたが、サチコが口にした形跡はほとんどなかった。そこまで気を遣う心があるのなら、最後のそのわずかな愛情で、なぜ命を捨てることを思いとどまらなかったのかと、改めて暗い気持ちになった。
床におろされたサチコは早速手当り次第にあちこちを探検しはじめた。カーペットの感触を確かめ、座卓の上を見上げて目を凝らし、カーテンの裾の匂いをしきりと嗅いでは、新天地の次の冒険へと歩いて行った。龍一は猫の飼育なんて全く分からなかったが、イメージだけでとりあえず新聞紙を大きく広げトイレらしきスペースを確保し、缶詰の中身を小皿に移し水も置いてやった。しばらくして思い直し、冷蔵庫からミルクを取り出して希伊が使っていた茶碗に注いだ。サチコはどうしたかと探してみると見当たらなかった。
「サチコ、おーい、どこ行った」
さんざん探したあげくやっと見つかった。冒険に出たサチコはベッドの下の雑多なものが突っ込まれている秘境の中で休憩をとっていた。龍一が手を突っ込み小さな探検家を引っ張り出そうとすると、「みやぁ」と言って身を引き動こうとはしなかった。この布団袋や電化製品の空き箱や埃にまみれた狭い秘境がよほど気に入ったらしい。
いや、違うと思い直した。この子にしてみれば暗い夜中に人間に捨てられて豪雨のなか恐怖のひと晩を過ごし、更にまた見知らぬ人間にさらわれて昨日と違う場所に連れてこられたのだ。怯えているのだと悟った。
龍一はふと、昨晩希伊から聞かされた彼女の生い立ちとこのサチコとが重なり、胸にぼとりと鉛を飲み込んだような気分になった。サチコは安息の地を求めると同時に、環境の激変に怯えているに違いない。猫という生き物は、環境の急激な変化を嫌う動物だと龍一が知ることになるのはもっとあとのことだった。

とりあえずサチコを好きなようにさせて、自分は熱い風呂に入ることにした。少しずつ悪寒がひどくなってきた。急いで裸になるとすぐに湯舟に体を沈めた。ついこの間まで残暑の厳しい九月だったとはいえ、やはりきっかりと正確に季節は巡り初秋の十月になっていた。いくら湯に浸かっても体の震えが止まらない龍一は、最初は季節の寒さのせいだと思ったが、熱い湯の中でしまいには歯がかちかち鳴りだした時には、確実に風邪をひいてしまったことを思い知らされた。首から下は湯の中にあるのに震えて寒い。逆に寒い外気に触れている頭は熱を帯びて熱くて仕方がない。頭の奥の小部屋で誰かが焚き火をしながら、頭蓋骨の内側をハンマーで叩いているようだった。龍一は人ごとのように不思議な気分になった。
風呂から上がった龍一は風邪薬を飲んですぐに寝ることに決めた。過去の経験からこういう時はとにかく睡眠をとって、死ぬほど汗をかいて、ひたすら目が覚めることを待つしかない。幸い今日は日曜だ。時間はたっぷりある。好きなだけ寝てしまおう。サチコはどうしているかと、急いでベッドに行き下を覗いてみた。可愛いきょろんとしたふたつの瞳がこちらを見返してきた。よくは知らないがキジトラというのだろうか。焦げ茶の縞模様の体と黄色い眼球の真ん中に緑がかった黒い瞳。彼女もまた少し震えているように見えた。思い立った龍一は先ほど作った新聞紙トイレと食事のセットをベッドのそばまで持ってきた。更に体の震えと腰の痛みを我慢して、台所に行き鍋でミルクを沸かしマグカップに自分の分を注ぎ、残りの少しに水を足してぬるめに冷ましてから、さきほど希伊の茶碗に入れたものと取り替えた。更に紀州みかんと書かれた段ボール箱をカッターナイフで加工して穴をあけ、中に誰かの結婚式でもらった高級ブランドのタオルを敷き込み、更に新聞紙を丸めて入れ込んだ。龍一は毛布を頭から被りそれを眺めながらホットミルクをすすった。歯がかちかちとマグカップの縁を小刻みに叩き、まるでキツツキになったような気分だった。サチコの家は子どもの頃テレビで観た、新宿西口地下街の浮浪者の段ボールハウスみたいだと思った。
龍一の頭が朦朧(もうろう)としてきた頃に、音もなくベッド下からサチコが這い出て来てミルクをぴちゃぴちゃ飲む音が聞こえた。サチコは慎重にあたりを窺(うかが)いながら、静かに新しい段ボール洞窟の中へ入った。何度もくるくる箱の中を回ったのちに、すとんと座り込んで丸くなって目を閉じた。

それを見届けた龍一は、希伊がいなくなった心の隙間に、ジグソーパズルの最後の一片ががぱちりと嵌(はま)ったような感覚を覚えつつ、灰色の泥濘(でいねい)の月に溺れ沈んでいく自分を俯瞰しながら、成すすべなく深い眠りに落ちた。
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