2016年8月15日月曜日

小説「月に雨降る」18

遠くから耳障りな電子音がかすかに聞こえているのはぼんやりと理解していた。隣町の国道で救急車がサイレンを鳴らしているように。徐々にこちらに近づいてきた。その音は次第にサイレンから電話のコール音に変化し、かっちりと耳元に届いた。

龍一は目が覚めた。
地球の重力に逆らいながら体をベッドから引きはがした。るるるるる、という電話の呼び出し音が突然やんで静寂があたりを支配した。救急車が家の前で止まりサイレンを切ったみたいに。
熱も頭痛も悪寒も嘘のように消えていた。青空が広がる台風一過の長閑(のどか)な田舎の朝のようだった。しかしまだ頭と体は重かった。サチコはどうしているだろうと、起きて段ボールの中を覗き込んだが彼女はいなかった。ベッドから降り立ち上がってみると、自分がいつの間に厚手のシャツを着て下は普段ははかないジャージを身につけていることに気がついた。おぼろに昨晩の記憶が蘇る。動物病院から女性の獣医に送ってもらい、家にたどり着いたまでは思い出せた。なんか変な名前だったな。確か、タカナシユミ...。
隣の部屋に行くと食卓のそばに置かれた低いソファーの上でサチコが小さな舌でしっぽをペロペロ舐めていた。龍一に気づくと小首を斜めにかしげて目をまんまるに見開いて鳴いた。
「みやぁ」
全快したわけではないだろうが、少なくとも昨晩よりは元気そうだった。寝室に戻ってみると新聞紙にも排泄のしるしがあり、ミルクも空っぽになっていた。ぬるめのミルクを作り、水も取り替えた。病み上がりの人に共通の、足が地に着いてない感覚のまま、ふらふらと再び居間へ行き時計を見た。龍一にはまだ早朝の感覚があったが、時計の長針はすでに正午を指していた。
「えっ、やばっ」
慌てて携帯の着信をみると、会社の番号と課長の孝雄、梅川の携帯番号が交互にいくつも並んでいた。更にもうひとつ登録されてない携帯番号もあった。月曜は全社的な朝礼があり始業の30分前に出社しなければならない。龍一は気が遠くなりそうだった。迷わず課長の番号をリダイヤルした。スリーコールで繋がるなり孝雄が言った。
「どうした、神島」
「孝雄さん、すみません遅刻します。今から出社します」
「遅刻してるのは百も承知だ。どうしたって訊いてるんだ。まさか、親戚の叔父さんの葬式だなんて、古典的な言い訳するんじゃないだろうな」
孝雄は部下のぐだぐだした言い訳を聞くと機嫌が悪くなるのを知っていた。と同時に、きちんとした理由を簡潔に話せば何も言わないことも。日曜から風邪をひいて今朝起きれなかったことだけを伝えた。希伊と同棲していることは孝雄も知っているのだが、希伊のことや猫を拾った顛末などは割愛して。すると少し声のトーンを落として孝雄が続けた。
「神島。俺はおまえが仕事熱心で人一倍責任感が強いのは知ってるつもりだ。昼までおまえが連絡もなしにいたことなんてなかったよな。風邪以外になんかあったのか」
「それは、またいずれ話します」
「わかった。午後はいい、今日は休め。今日は急ぎの案件とかはないのか」
「今日中にやらなきゃいけないものはないです。金曜に吉祥寺の内監に基本設計提出ですが、大丈夫です」
「わかった」
孝雄はそれ以上何も言わず電話を切った。
次に龍一は梅川に電話を入れ今日は体調不良で休むと告げた。昨晩の龍一からの電話は電波の関係で通じなかったから着信履歴は残ってないはずだ。梅川は忙しいらしくお大事に、とだけ言って会話を終わらせた。
最後に登録されていない番号を見ているうちに思い当たることがあった。昨日由美からもらった名刺を取り出した。同じ番号だった。着信の時刻は朝早くと午前九時、十時半の三回もあった。そうだ、サチコの容態を電話しろと言われていたことを思い出した。昨日の礼も言わなければ。由美の携帯へかけた。すぐに繋がり開口一番言ってきた。
「大丈夫?」
電話に出た由美は少し息があがっている様子で、クリニックではなく外を歩いているようだった。
「はい、おかげさまでなんとか生きてます」
「その声ならなんとか生きてるようね。サチコちゃんのほうは?」
龍一がソファで寝そべっているサチコの見たままの様子を話していると、チャイムが鳴った。
「あっ、すみません、ちょっと電話このまま待ってもらえますか」
「えっ、あたし忙しいんだから早くしてよ」

龍一がドア越しにはいと返事をすると、宅配便ですと女の声が返ってきた。急いでドアを開けるとそこには、右手で携帯を耳に当て、左手で目線の高さまでコンビニ袋を持ち上げた由美がにっこりと立っていた。

今日の由美は白のスラックスに豊かなバストラインがはっきりと分かるようなきつめの白いTシャツ、その上に藤色のカーディガンを羽織っていた。昼休みに寄ったのだった。
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