2016年9月22日木曜日

小説「月に雨降る」25

家政婦が龍一のためのコーヒーと奈津子の紅茶を持って来た。器はロイヤルコペンハーゲンだった。家政婦の女性が龍一のことをちらちらと盗み見ているような視線を感じ、居心地の悪さが倍増した。
龍一はここまで来た来意を話した。順を追って希伊との出会いから、二週間前の晩に聞いた出自のことも含め突然姿を消したことまでを。これらを簡潔に要約して話すのはとても困難だった。言葉を慎重に選んだつもりだったが、うまく言えたかどうかは自信がなかった。その間、奈津子は黙って姿勢を正して聞いていた。
龍一はちいさく「いただきます」と言ってコーヒーをひと口啜り、そして最後に言った。
「僕は希伊から聞いているあなたたちの仕打ち、いや、仕打ちなんていう表現が正しいかどうか第三者の自分には分かりませんが、今ここでそれを問題にするつもりもなければ、それを糾弾する権利は僕にはありません。僕は希伊を探しています。居所を知りたくてここへ来ました。ただそれだけです。ご存知でしたら教えていただきたいのです」
ひと通り龍一の話を黙って聞いていた奈津子がやっと口を開いた。まるで独り言をつぶやくように、低い声で言い放った。
「やはりね。蛙の子は蛙ね」

蛙の子は蛙?
龍一には一瞬意味が解せなかった。
「どういうことですか?」
それには答えず奈津子は続けた。
「あの子には親として最大限のことをしてあげたのよ。普通の親の何倍も何十倍もね。最高の教育環境と何不自由ない生活環境を与えて。それをこんな形で裏切られるとは思ってもみなかったわ。家出をして一人暮らしをした挙げ句に、あなたのような人と同棲するなんて」
龍一は世間から見ればまだ若造の部類だったが、一瞬にしてこの女の正体を垣間みた気がした。若造でも人を見る目は持っているつもりだった。根拠のない自信があった。自分の心のエンジンに火が入った音が聞こえた。
「親として最大限のこと?あなたは何か大きな勘違いをしてませんか。子どもに最大限に与えるべきことは、金とか教育の前に親としての唯一無二の子への愛情でしょう」
声が上ずるのが自分にも分かった。
「そうやってすぐ熱くなるところ、あの子に似てるわね。そういう意味ではお似合いのカップルねえ。まだお若いからかしら」
お望みどおりいくらでも熱くなってやろうじゃないか。
「それに裏切られたとおっしゃいましたが、全く逆でしょう。あなたたち偽の親に裏切られたのが希伊のほうだろ。なんでそんなことが分かってないんだ」
「なんとでもおっしゃい。そろそろ化けの皮が剥がれてきたようね、神島さん。言葉遣いも乱暴になって、やはりあなたも所詮蛙の子は蛙ってことよ」
アクセルを踏み込む。増幅したエギゾーストノートが聞こえた。
「蛙の子は蛙か。凡人の子どもは所詮凡人。そうだよ、俺は高知の田舎の果物屋の息子で筋金入りの凡人さ。世界一希伊のことを大事に思っている日本一の凡人なんだよ」
「激高しているのに面白いことを言うわね、あなた。最初に言った蛙の子の例えは、あの子のことよ。いくら優秀な子に育てたつもりでも、結局は永山家の血筋ではなく他人の子。確か北陸の小さな土建屋さん?建築屋さんだったかしら、そこの孤児だったのよねえ。うちが里親になっていなかったら、あの子は天涯孤独の身。私は最初から反対だったのに、主人に強引に押し付けられて」
思わず立ち上がって声を荒げた。
「その話は希伊から聞いた。もうやめてくれ。反吐が出そうになる。あんたらそれでも人間か」
常に上からの目線で他人を見下ろし、自分の人としての過ちを全く認めようとせず、高慢で傲慢な態度に龍一は本当に気分が悪くなって吐きそうになった。しばらく無言の空気が広い部屋を支配した。大きく肩で息をしながら冷静になってみると、この人は救いようのない深い涸れた井戸のような世界にいる、孤独な住人なのではないか。この人も自分には知るべくもない冷徹な環境で育ったのではないのだろうか。そう思い至ったところで自分でも驚くくらい気の毒に思うようになった。自分を見上げる奈津子の目を見て言った。
「最大の皮肉を込めて言わせてもらいますけど、あなたは可哀想な人ですね」
それまで冷たい目をしていた奈津子の顔に一瞬色が射し、血相を変えて立ち上がった。
「なんですって。もう一度言ってごらんなさい。ただじゃすまな...」
予想外だったが奈津子は龍一に対しすかさず手を挙げようとした。すぐにその手を引っ込めたのだがその手慣れたふうの挙動を龍一は見逃さなかった。閃くものがあった。もしやそういうことか。半信半疑でカマを掛けてみる。
「今振り挙げた右手で幼い頃の希伊を何回殴ったんですか。顔ですか。それとも他人には分からないように背中とか腹とかですか。アザが出来るくらいに。おそらく高学歴であろうあなたには、それをなんて言うか知ってますよね。...幼児虐待」

カッと見開いた目で龍一を見つめた奈津子はそれまでの高慢な態度から一転し、腰を折ってうつむき背中を震わせはじめた。
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