2016年10月20日木曜日

小説「月に雨降る」28

右手の中の紙切れを握りしめながら、自由が丘駅へ向かう龍一の足取りは重かった。この二週間なにも手をこまねいて漫然と過ごしていたわけではない。消息を断ってから真っ先に希伊の友人数人に連絡を取ってみた。龍一が電話番号まで知っている者は少なかった。希伊がいなくなった理由を話すには、徒歩でサハラ砂漠を横断するくらい気が遠くなるような労力を必要としたし、簡単に言えることでもなければ言うべきことでもなかったので、彼女たちには適当な嘘を並べて訊ねてみた。誰にも連絡はなかった。希伊はまだ携帯を持っていなかったので、彼女らから希伊に連絡することも出来ない。更に希伊と初めて知り合った時の池袋のアルバイト先にも連絡を取ってみた。電話には当時二人を可愛がってくれた店長が出た。
「龍一かあ、おまえ元気してるか。たまには顔を出せよ。おまえは来れなくてもいいから、希伊ちゃんだけ来てくれてもいいぞ」
「店長久しぶり、ご無沙汰です。しかし店長まだ飽きずに店長してるんですね」
「うっせぇ。心頭滅却すれば火もまた涼し。一意専心、粉骨砕身、俺の長年の努力が認められてな、来期から本部付けの管理職に昇進だぜよ。おまえらが来た時奢ってやれるのも今のうちだけだぞ。とっとと遊びにこい」
「えっ、店長がスーツにネクタイですか。全く想像出来ないなあ。南極のペンギンが空を飛んでアフリカの猟師に撃ち落とされるくらい信じがたいことですよ」
「おまえ何言ってんだ。ペンギンだって努力すれば空を飛べるはずだよ。あいつらきっと努力が足らないんだよ」
「そうか。だったら北極のシロクマだって努力すれば、ハワイに別荘を構えて週末はワイキキでバカンスを楽しむことだって可能なんですね」
「うむ。そういうことだ」
当時と同じく気心の知れた会話は今も健在だった。店長は龍一と希伊が同棲していることは知っていた。バイトを辞めてからも結婚式には必ず俺を呼べよとまで言ってくれていた人だった。慎重に理由は伏せて、それとなく希伊のことを訊ねたがやはり知らなかった。
また、警察に捜索願いを出そうかとも思ったことがあった。中野区の交番の前を通りかかった時に思わず警察官に声をかけそうになったが思いとどまった。配偶者でも肉親でもない同棲相手の男が申請しても、すんなり受理してくれるとは考えにくい。それどころか、どうせ喧嘩別れでもして女に逃げられた哀れな男だろうと見なされて冷笑されかねない。いや、下手をすれば根拠もなくストーカー扱いされて逆にブラックリスト入りされる可能性だってある。昨年の桶川事件を契機に今年の五月にはストーカー規制法が成立したばかりだった。警察の怠慢な対応も世間的に問題視されて、法の施行はまだだったが警察当局だってストーカー問題には神経を尖らせているはずだ。更に龍一の頭に浮かんだのは興信所や探偵事務所に依頼することだったが、龍一の給料と蓄えではそんな金を捻出することは出来なかったし、たとえ依頼しても見つかる可能性は低いだろうと思ったのだった。

万策尽きた、とはこのことか。もう踏切を渡れば自由が丘の駅前ロータリーだった。入社して間もない頃設計アシスタントを務めた、左手にある高級子供服専門店を横目で見ながら改札へ向かった。希伊と普通に結婚して子どもをもうけたら、もしかしたらこの店で幼い子の洋服を買っていたのかもしれない。そんなことを思いながら、ポケットの中の、かな江から渡された紙切れをもう一度強く握りしめた。
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