2017年2月15日水曜日

小説「月に雨降る」37

突然ずかずかと足音がしたかと思うと、のっそりとトイレに行く息子が見えた。すでに龍一の身長に肉薄するほど背が伸びた。用を足しトイレから出てくるともの凄い勢いで顔を洗いまた自分の部屋に駆け出して行く。
「おい、おまえ、今日の部活は」
「ん。だから今焦ってんじゃん。遅刻しそうだよ」
そう言うなり踵(きびす)を返してベランダに突進し、野球の白い練習着を取り込みそのままリビングで着替え始めた。
「あのなあ、もう少し計画的に起床出来ないもんかね。昨日何時に寝たんだよ。またスマホでネット見てたんだろ」
「親父に言われたくないよ。昨日酔っぱらって何時に帰ってきたのさ」
確かに。おまえの言うとおりだ。
「お父さんさ、最近なんか変じゃね」
それは俺が一番よく知ってるし。
「なんかさ、家に帰ってきてもじっと黙って空中の一点を見つめたりとか、深夜にトイレに起きてみたら、居間でウィスキーのグラスの中を覗き込んでぶつぶつ独りごと言ったりとかさ、なんか最近変だよ。なんかあったの」
驚いた。自分の知らぬ間に子どもは親を見る目が成長していたのだった。こんなに大人びた目線をいつのまに備えていたのだろうか。親が思っている以上にこの年頃の子どもは独自の世界を形成しつつあるのだと思い知った。そういえば自分の中学時代も一気に親離れをして野球と友だちと遊ぶことが世界の中心にあった。
「おまえ、よく見てるな。それはそうと部活から帰ったらちょっと話がある」
「はあ?進路のこと?面倒くせぇなあ」
そのあと息子は冷蔵庫から納豆を取り出しスチロールパックのままスプーンで搔き込むと、ローリングスのスポーツバッグを担いで家を飛び出した。その背中に龍一は声をかけた。
「おい、納豆食ったら歯磨いてから行けよ。女の子に嫌われるぞ」
「ん、女子なんて興味ねえし」
嘘つけ。このところ毎晩のように楽しげに女子と電話してるのを俺は知ってるぞ。
そんな時もサチコは玄関に行って、しっぽを自分の足に巻き付けて律儀に座って息子を見送った。サチコの世話は夜遅い龍一に替わり二人の子どもが面倒をみていたのだった。特に娘との仲は親密で、夜になるとサチコは掛け布団と敷き布団の僅かな隙間からするりと侵入してきて、娘の寝床へ潜り込み朝まで喉をぐるるぅぐるるぅと鳴らしながら過ごすのが常だった。

まだ小学生の娘に話すことは躊躇われたが中学生になった息子には今の自分のこと、希伊とのことを話しておこうと思った。その上で金沢へ行くことにしたのだった。その晩娘が自分の部屋に引っ込んでから、男同士でリビングで話し合った。自分の若い頃からの来し方、希伊との出会いと別れ、ほどなくして結婚しおまえたちが生まれ、そして離婚したことを。サチコを拾った顛末も漏らさず話した。気がつくと時計の針は午前零時を回っていた。長い話を聞き終えた息子がぼそりと言った。
「わかった」
息子は真顔になって続けた。

「俺、お父さんを応援するよ。金沢でもどこでも、世界の果てまでも行ってくればいいじゃん。話を聞いていて俺もその希伊さんという人に会ってみたいと思ったよ。だって俺の親父がそこまで惚れ込んだ女の人なんだもの」
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