2017年6月22日木曜日

小説「月に雨降る」40

久々の、小説「月に雨降る」です。
あまりに久々すぎるので前話を失念した方を鑑みて、前回の話の最後部分を再度掲載。

小説「月に雨降る」39(再掲載)

.............
図星だった。彼女なりに薄々何かを感じ取っていたのだろうか。やはり以心伝心だった。良くも悪くも。
「なんで分かったの」
「最近のリュウさんを見れば分かるわよ。これだけの付き合いだもの。今日なんかいつもだったらこんな高いお店なんか来ないし。しかもその話の内容は、たぶん...」
たぶんと言ったきり恭子は黙りこくってしまい、下を向いて固まってしまったように見えた。
「恭子。ごめん」
ゆっくり顔を上げた彼女はまっすぐ龍一の目を見据えた。
「ごめんって、何?はっきり言ってもらったほうがいいわ。このところずっと、毎晩眠れなくて、リュウさん変だから。私と話をしていても私の後ろにいる他の誰かに向かってしゃべっているみたいで。心ここにあらずって感じで。私はね、このままずっとリュウさんとは、ずっと...ずっと...このままでいたいと」
恭子の目からみるみるうちに涙が溢れてきた。喉を振り絞るように言った。

「どうして?私じゃだめなの?」

ここから、小説「月に雨降る」40

「だめなもんか」
龍一はグラスに手を伸ばしひとくち飲んだ。食道を熱く焦がしながらやがて胃袋の中でぽっと熱いものが広がった。
「恭子、話を聞いて欲しい。俺は今までもこれからも恭子のことを大事に思っているよ、人としても女としても。遊びでつき合ってきたわけじゃないことは恭子にも分かってもらえていると思う。普通なら多分この先の将来、再婚のことも考えていたはずだった。いや、実際年齢差はあるけれど、恭子さえ良ければと、真剣に考えたこともあった。俺のうぬぼれとか思い過ごしでなければ、恭子もそれを拒否することはないだろうとも思っていたんだ」
恭子はハンカチを目に当てて、「うん」と言いながら小さくこくんと頷いた。そんな健気(けなげ)な表情を見ていると龍一は一瞬気持ちが揺らいだ。すまない、俺は今からこの子をひどい目に合わせることになるんだ。俺はどうしようもない悪い男だ。しかしこれ以上期待を持たせるような物言いはますます彼女を苦しめることになる。
「ほかに好きなひとが出来たの?」
「違うんだ。昔、他に好きな人がいたんだ」
小首をかしげたきれいな顔立ちの女に言った。
「恭子。すまない、別れてほしい」

このところ探偵の黒坂や息子にも話した希伊とのことを、恭子にはなるべく淡々と話した。感情を込めて話したのでは恭子を傷つけることになると思ったからだった。こんな話をするのはこれで最後だ。人が聞けばこんな馬鹿げた話はないだろう。四十過ぎのバツイチ子持ちの中年親父が、若くて美人の恋人を袖にして、全く当てのない昔の女を捜しに行くなんて。行ったところで会えるかどうかすら分からない、ましてや相手は今既婚者かもしれないのだった。また辛いことだったが、若い恭子には年齢に相応しい違う男が、これからいくらでも選べるはずだ。
龍一の長い話をテーブルの一点を見つめたまま黙って聞いていた恭子が口を開いた。
「男の人って昔の女が忘れられないって言うけど、リュウさんもそうなのね」
「うん、それは正解だけど、俺の場合はうまく言えないけど、そんなんじゃなく特別なんだ。たぶん普通の男ならこんな選択肢はありえないだろう」
恭子は目を赤く腫らし、天井を見上げて「ふう」とひとつため息をついて、長いあいだ頑(かたくな)に沈黙を守っていた。その間龍一は眉間に皺を寄せてじっと恭子を見ていた。恭子はワインを少し舐めて、そのグラスの縁の口紅を親指でしゅっと拭ってからやっと口を開いた。
「そこまでリュウさんが思い込んでいるのならわかりました。でも私、待ってるから。もし金沢へ行ってだめだったら、私、待ってるから。今別れる必要なんてないじゃない。私、待ってるもん」
龍一にはそこが肝要なところだった。
「そう言ってくれることはとても嬉しいよ。でもさ、それでは俺が俺を許せないんだ」
「俺が俺を許せないって、どういうこと?」
「自分から勝手なことを言って昔の女を捜しに行って、会えなかったらのこのこ帰ってきてまた元の鞘に戻る。恭子の存在を保険の担保に取った形でね。あっちが駄目でもここに帰ればまた温室に戻れる。それは卑怯だと思うんだ。そんな気持ちで行きたくないし、何より恭子に対しても希伊に対しても失礼なことだと思う。だからきっぱりとけじめをつけたうえで、白紙の状態で行きたいんだ。少しかっこ良く言えば退路を断った上で前に進みたい。もしそのまま終わって何もなく東京に戻ったとしても、そこには恭子という素敵な恋人は、もういてはならないんだ、俺にとっては」
みるみるうちに恭子の大きな瞳から、大粒の涙がぽろぽろと転がるようにこぼれ落ちた。いくつもの熱い液体の粒がワイングラスに落ちて行くのを呆然と俯瞰していた。嗚咽をこらえる恭子にかける言葉を龍一は知らなかった。すまない、申し訳ない、ごめんよ...そんなお仕着せの言葉はますます彼女を苦しめることだろう。今の龍一には黙っていることしか出来なかった。
しばらくすると恭子はいきなり立ち上がった。反射的に龍一も席を立った。
「リュウさん」
恭子が最後の言葉を探しているのは龍一にも分かった。たぶんこれが彼女との最後の会話になるのだ。しかし龍一の推量は当たらなかった。恭子は全く無言で龍一に抱きついてきた。恭子の胸が小刻みに打ち震えているのが伝わったきた。強く抱きしめると互いの頬が触れあい、そしてふたつの涙の川が僅かな頬と頬のすき間で合流し一本の川になり下へ流れ落ちた。
どれだけそうしていたのだろう。恭子はゆっくり体を離すとじっと龍一の目を見つめた。龍一はビデオをスローモーション再生するように、恭子の唇に自分のそれを重ねた。彼女の舌はそれに深く強く親密に反応した。
「私からさよならは言いたくない。でもやっぱり、これでさよならなんだろうね」
恭子はそれ以上何も言わずバッグを取ると個室を静かに出て行った。

すまないという深謝の念と、恭子の将来のためにはこれでいいんだという思いと、今でも残る微かな未練の残滓(ざんし)が輻輳(ふくそう)的に絡みあって、龍一の頭の中は混乱していた。
恭子の涙が含まれたワイングラスをじっと見つめながら、龍一はいつまでも誰もいない個室で佇んでいた。

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