2017年8月10日木曜日

小説「月に雨降る」46

龍一は大通りへ向かう路地を歩いていた。脚は砂浜に打ち上げられた流木のように疲れていた。すっかり雨は止み、すでに空は明るさを取り戻し雲と雲の僅かな切れ目から、青空とも夕暮れともつかない赤紫色の空が垣間見えていた。頭の中ではいろんな思いが渦を巻き、自分をどうコントロールして良いか分からなくなっていた。その渦の中から頭をもたげてきた者がいた。新幹線の黒鏡に映っていたもう一人の龍一だった。
『おまえは本当にそれでいいのか』
何かの力が働き立ち止まる。後ろから誰かに羽交い締めされたみたいに。
『おまえはこのまま家へ帰る。明日になればまたいつもの日常が待っている。そしておまえは、これから一生、自分に言い訳をしながら過ごすんだ。彼女に会わずに帰った理由を正当化し、同時に自分の心に嘘をついて』
何も言い返せない自分がいた。それはとりもなおさず、龍一自身の気持ちでもあったからだ。今度は虚像ではなく龍一本人の心が叫んでいた。
『このまま帰って希伊の残像を心の片隅に住まわせて、一生後悔しながら生きていくくらいなら、希伊とちゃんと対峙(たいじ)しろ。そのあとのことはその時に考えろ。見る前に跳べ』
龍一はそれ以上考えることはやめて、店へ戻るため走り出そうとして後ろを振り向いた。

そこに希伊がいた。

希伊は片手に紙切れを握りしめ肩で息をしながら、真っすぐな目で龍一を見つめていた。唇が震え出したかと思うと、その目からはあっというまに大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出た。龍一はサングラスをはずし帽子を取ると希伊に一歩足を踏み出した。そのとたん希伊が龍一の胸に飛び込んできた。
希伊は声を震わせて言った。
「リュウ、逢いたかったよ」
「ごめん、待たせて。もっと早く来るべきだった」
「ほんとだよ、待ったんだからね。遅いよ」
希伊は昔から見え透いた強がりを言うのが癖だ。龍一も返した。
「待った?17年の遅刻だな」
涙目で笑いながら希伊が言う。
「ほんとだよもう。わたしいっぱいシワが増えちゃったじゃん」
「俺も増えたよウェストが。あっ、減ったのもある、髪の毛が」
あははと笑いながら希伊は龍一の脇腹をつねった。そのまま二人は押し黙ってしまった。いったい何から話していいのか。相手にかけようとする言葉を探すと、いくつもの言葉が広大な海に浮かび、手のひらにすくえば指の間からこぼれ落ち、結局お互いの気持ちの収拾がつかないのだった。
もう一度今度は優しく抱き合いながらやっと希伊が耳元で囁いた。その柔らかな胸は龍一の両腕の中に確実に存在していた。
「リュウ、ごめんね、突然いなくなって。話したいことがいっぱいあるんだ」
「うん。俺も訊きたいことがいっぱいあるんだ」
まだ仕事があるから閉店時間にもう一度店に来て欲しいと希伊は言った。
西の空を見渡すと、雲の間から眩しいほどの夕陽が希伊の頬に射して紅く染まっていた。


やっとあの日の、月に降る雨が止んだように思った。灰色の月の世界で強い雨に打たれて佇んでいる希伊を、ようやく迎えに来ることが出来た。同時に永いあいだ龍一の胸の底に沈殿していた灰色の世界もゆっくりと確実に消え去るのを感じた。
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