2017年9月21日木曜日

小説「月に雨降る」50

「今度は私が話す番だね」
「うん」
「でもね、原稿用紙2、3枚じゃあ済みそうにないから、その前にちょっとシャワー浴びて来てもいいかな?今日もすっごい暑かったし、もう体がべたべたしちゃって」
「はあ?シャワーっていったい」
「あそっか、リュウは知らないか。ここの二階は私の家なの。この建物を購入した時に二階は事務所と倉庫だったんだけど、全面改装して住居にしたんだ、狭いけどね」
「ええっ?」
「二階に住んで、一階で仕事をするっていう、通勤時間ゼロ分」
「究極の職住近接。通勤定期代ゼロ円」
「んふっ、そうよ」
希伊は少し気恥ずかしそうに目をそらしながら龍一に言った。
「良かったら上で飲み直さない?ここだと仕事気分が抜けないし」
「いいね、昔一緒に住んでた時みたいに」
希伊はドアに鍵をかけ店内の灯を消し、二人でグラスやボトルなどを手分けして持ちながらキッチンの奥を通って二階へ続く階段を昇った。
そこは狭いけれど居心地の良さそうな小綺麗な居住空間だった。宇宙のどこか知らない小惑星にふわりと降り立ったような感覚に襲われた。寝室だけが壁で仕切られてあとは広めのワンルームだった。希伊は浴室へ消えて、龍一はリビングテーブルのソファに座りひとりでワインを舐めた。龍一にしてみれば胸に去来する記憶がいくつも渦巻いていたが、金沢に来てこんな展開は想像すらしていなかった。すでに過去も未来もここでは意味を持たず、ほんの僅かに時間軸と空間が歪んだみたいに、別世界にいるような今のこの時間を大切にしようと思った。

希伊が浴室から出て来ると、リビングに居るはずの龍一が見当たらなかった。トイレのドアの隙間からは光が漏れていないし、階下へ戻ったふうでもなかった。じゃあどこへ行ったのだろう。部屋はしんとしている。希伊は急激に不安になってきた。
「リュウ、どこにいるの?」
今日起きた今までの出来事は夢だったのだろうか。また私は独りぼっちになるのだろうか。ほんの一瞬たっだがそんな思いが頭をよぎった。その時背後に人の気配を感じた。
「ひゃっ!」
振り返る間もなく龍一がいきなり現れて後ろから抱きすくめられた。
「さっきのお返しさ」
希伊はなされるがままに龍一に両腕で抱き上げられた。「やだ、重いよ」という訴えを無視されて、耳元で囁かれた。
「もう我慢できない」
「...わたしも」
希伊は文字通り身も心も地上からふわふわと浮いたまま、ゆっくりと寝室へ運ばれていった。

最初は激しく性急に、にわかにかき曇った雨雲から突然稲妻が落ちるみたいに。二人とも野生動物が肉を貪るような時間はあっという間だった。
二度目は喪失した永い時間を取り戻すかのように、ゆっくりと丹念に、互いにひとつひとつのパーツを確認し合い、ホクロの位置や数や大きさ、丘陵の傾斜角やその固さ柔らかさなど、若かった頃の記憶と照らし合わせながら、親密で穏やかな時間が過ぎていった。ふたりは身も心も熱くひとつに溶け合っていった。

希伊はキッチンに行きビールとウィスキーロックのセットを持って来ると、リビングの龍一が座るソファの左横に座った。二人ともまだ体の火照りが収まらなかった。冷えたビールでもう一度小さな乾杯をした。
「やっとわたしが話す番ね」
「うん。夜はまだ長いし、太陽が顔を見せるまでにはまだ十分時間があるし」
「そうね」
「俺は途中何も挟まないで黙って聞いているから、希伊のペースでゆっくり話してくれたらいい」
希伊はこくんと頷きグラスをテーブルに戻すと、あの日以降の記憶をたどりながら、長い独白を始めた。
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