2017年2月6日月曜日

小説「月に雨降る」36

翌日の土曜日は遅くまで寝てしまった。昨晩黒坂と別れたあとバーMakiに行って、真壁相手に深夜まで飲んで軽い二日酔いだった。いつになく早いピッチの酒に真壁は何かを感じたようだったが、最後まで龍一の胸の内を詮索することはなかった。
昼近くになってから起きて歯を磨いていると、サチコがみゃあと鳴いて、ゆっくりと歩み寄り、龍一の足元を八の字を描くようにくるりと回ったあと、しっぽをふくらはぎにしゅるりと絡ませてきた。竹に絡む朝顔のつるみたいに。希伊が姿を消した朝、捨て猫として偶然拾い希伊の分身として飼ってきたのがサチコだった。あれから十五、六年。猫としてはとうに寿命を過ぎていたが、どうにか元気に生きていた。とは言えさすがに子猫の時のように家中を駆け回るようなことはなく、終日目をつぶり穏やかに寝ていることが多くなった。ご飯の時間になっても若い頃のようにまん丸な目をこれ以上開けないというほど見開いてねだることはもうなく、ゆっくりと少しだけ食べて多くを残し、そのまままたお気に入りの場所を探して丸くなって寝てしまうのが日常となった。人間も動物もものを食べなくなったら死期が近いことは知っている。緩やかに、しかし確実に彼女の人生の黄昏の時が近づいているのを龍一は感じずにはいられなかった。この子を失った時の自分が想像出来なかった。いや想像することをあえて避けようとしている自分がいる。思わず抱き上げて頰ずりをした。以前は命の存在感を伴った重みがあったのに、今は古いバスタオルを丸めたような軽さだった。
「まだまだ元気で生きてくれよ、なあサチコ」
独り言を言っていると背後から声がした。
「お父さん、早く洗面台空けてよお。今からデートなんだから」
「何っ、今なんつったおまえ。で、で、で、デートと抜かしおったか」
「そうだよ。ひーちゃんと美咲と三人で遊びに行くんだよ」
驚かしやがって。いくら時代が進んだとはいえ、小学生で男とデートはあるまいと分かっていても一瞬うろたえてしまった。今日は少年野球チームのグランドが取れずに、珍しく練習は休みだった。火曜日に連絡網のメールが来ていたのを思い出した。娘の所属するチームには他にひーちゃんと美咲という二人の女の子がいて三人とも大の仲良しだった。遊ぶといってもいつもマックでハンバーガーを食べたり、プリクラで写真を撮ったりと小学生らしく他愛のないものだった。以前酔った勢いで龍一もチームの父親同士でプリクラを撮ったことがあったが、娘が撮ってきたプリクラを見せてもらうと、当時と比べて日進月歩、撮影技術が劇的に進化していて、とてつもなく可愛く撮れることに驚いたものだった。目は異様に大きくリカちゃん人形のように、顔は皺が全くなく唇には口紅まで表現されている。これを「盛る」というのだそうだ。キャバクラ嬢が人間技とは思えないほどの化粧とヘアメイクを盛っているのはテレビなどで知ってはいたが、それと自分の娘の姿がだぶって見えた時、龍一はぶるぶると自分の妄想を打ち消した。最近のネットの調査では小学生の将来なりたい職業の上位に男子は「ユーチューバー」女子は「キャバクラ嬢」と載っていたのを知り、愕然としたものだ。全くもって妙な時代になったものだ。
「気をつけて行けよ」
どこに行く?誰と行く?何時頃帰る?遅れるときは必ず連絡入れろよ、と娘の安否を気遣うつもりがその実、自分を安心させるための方便であることに気づき、のど元まで出かかった言葉を飲み込んだ。最近親父から小言を言われると露骨に嫌な顔をするようになった。そんな年頃なのだろうと龍一は思ってはいたが、しかし深読みすれば母親がいないせいなのかもしれないと思い直す。この子から母親を奪ったのは、俺と元嫁の大人の勝手な事情からだ。すまないと改めて思った。でもあのまま生活を続けていればいずれ家庭は崩壊していたに違いない。そうならずに済んだことは小学生の彼女にはまだ分かるまい。大人になってから理解してくれるだろう、たぶん。

龍一は財布からささやかな小遣いを渡し娘を送り出した。そんな時サチコも玄関まで行って娘を送り出すようにみゃあとひとこと鳴いて、またよろよろとリビングに戻って丸くなるのだった。
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