少年野球をはじめ、愛する家族、仕事の地質学、音楽や下ネタから人生の来し方まで、自分の行動や思考の記録を綴ったブログなんである。ひょんなことでこの「hiratakuwa」さんと交流を持つことになった筆者。今回の宮前20周年記念誌刊行に伴い、氏を敬愛する私は熊本へ一冊送付申し上げた。
今朝いつものように、このブログの右のリンクから「1969/04/09に生まれて」に飛んでみたら、ナント送付した記念誌のことが掲載されていたんである。
「素敵な記念誌」....最大の賛辞でした。ありがとうございました。
「1969/04/09に生まれて」 (←クリックでスッ飛んで行きます)
記念誌の連載もvol.5まで掲載。
先日、Nishimura編集長に、このブログの場を提供しちゃうので、編集長自身で編集後記をブログ版で書いて欲しいと打診。記念誌最終ページには絶対、功労者であるNishimuraさんの名前を冠付きで載せるべきと主張したけれど、氏は頑として黒子に徹した。業を煮やした筆者はせめて「思いのたけ」をここで吐露してもらおうと思ったんである。
「おまえの替わりはいくらでもいる」...逆に、
「この人の替わりはこの人しかいない」
もちろん後者である。言い換えればNishimuraさんなくしては、この記念誌は全くの別物になっていたに違いないのだ。
Nishimuraさんが年末の帰省前の昨日、氏からメールが届いた。
それはメールというより、記念誌プロジェクトメンバーへの、
「男たちへの手紙」であった。
執筆=Nishimura・文責=Teshima 以下原文ママ。
(長文なのでお笑い年末特番を観たい方は、トイレ行ってTV終わってから読むことを推奨します)
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「発行終えて、年越えそうで」
記念誌プロジェクトチームの皆さん、いかがお過ごしですか?
早いもので、各チームに1冊600円で買ってもらった20周年記念誌のお披露目をして20日が経とうとしています。
もう後わずかで宮前連盟は21周年を迎えることになりますね。
今のところ悪評を聞く機会が無く、ただし面と向かっての悪評は言いづらいことだろうし、10年後の人たちが評価を下してくれるだろうと、そう思うことにしました。
つまり「歴史の評価を待つ」ということですね。そういう言い方をすればメンバー一同、なかなかの仕事をしたみたいでかっこいいでしょ。
出来れば10年後の「記念誌」の「30年のあゆみ」のページに「2011年12月10日、20周年記念誌発行」と表紙の写真付きで載っけて欲しいものです。
(10周年記念誌のことは、今回の20周年記念誌では「一切」触れませんでしたが…)
もっと欲をいえば今回の「表1・表4と全80ページ」を30周年記念誌に載っけて欲しいものです。
そしたら(たぶん悩み多かりきの)ページ稼げますし、今と10年後のチーム変遷の歴史も(もしそういうことがあれば)良く理解できることと思い
ます。印刷代はかなりアップで、1冊600円ではすまないと思いますが…。
30周年記念誌。
誰が総合的な判断を随時下すか、誰がディレクションをやるのか、誰がアートディレククションやデザインをやってくれるか、写真は誰が撮ってくれるか、コピーは誰が書く?一見地味だけど、コツコツと過去の歴史を紐解いていく作業を誰が、誰が誰がやってくれるのだろうか。
そんなことを考えていると、早く30周年記念誌を見たくなってきました。
「元気でいるか。街にはなれたか。友達できたか。」は、母とさだまさしが良く口にしていました。
「お金はあるか♪」は、母は敢えていつも聞いて来なかったですが。。
金はあまりないけど、明日福岡に帰ります。もちろんまた22年ほど親しんだこの街宮前に戻ります。
ただ福岡に帰る前にアートディレクターでありデザイナーであり、時にはフォトグラファー、コピーライターでもある豊島さんからの宿題をしたためないうちは、新年がいつまでたっても明けないような気がしていて、一筆啓上に至った次第です。
履歴を調べたところ、一年前の今日(2010年12月29日)は豊島さんから目次に使う連盟旗の加工データを送ってもらって、「あれやこれや」といろいろと控えめな意見やお願いをしていました。
それ以降も時には明らかに「無茶な(大変な)」お願いもし、今思うとそのようなお願いを、勇気を持ってし続けて…良かったなぁと...。
その分、先生の気合もウコンの力もサイヤ人がスーパーサイヤ人に進化する如く、ドラゴンボールを7つ集めてしまったが如く、次々と間断なく「傑作数々」の連射でしたからね。ちなみにこの2010年12月29日に初めて「編集長」という名誉あるハンドルネームを賜っているようです。
2010年2月27日、「第一回連盟設立20周年事業に関する理事・事務局員合同会議」というのが、宮前市民館で開かれました。
そこで司会の事務局長が配付した資料。その記念誌担当欄を見て、私は唖然としていました。
遡ること2010年1月30日の連盟役員・副事務会議で、私は笠原副会長の下、「記念誌担当」となり「記念誌担当チームには、フラワーズとフレンズは必ず入れてください」ともお願いしていました。確かにフラワーズもフレンズも、そしてスラッガーズとメイツが、もちろん笠原副会長の名も「理事・事務局員合同会議」での配付資料に刻まれていました。が、私は何故か「イベント担当」に…。その場で事務局長に「何故ですかぁ」ということは大人ですので控えましたが、正式に記念誌担当に変更してもらう(という言い方も元々が記念誌担当でしたので変ですが…)のに3カ月を要しました。
2010年11月7日、宮前市民館で開かれた「実際に記念事業に携わる人たち集合会議」。
事前の根回しもしていないのに私の予想通りのメンバーが集まってくれ、実はこの時点で仕事の半分は終わった感を抱いたものでした。
(豊島さんとはその3年前にフレンズの卒団式で初めてお会いして、「イラストレータ使い」であることも、話しているだけで「正にアートディレクター」だと言う事も、フレンズのホームページで読む「晴耕雨読」を通して、かなりの文章家でもあることも事前に知っていました。が、豊島さんはそれまでの3年で20kgも太ってしまった私のことをすっかり忘れていましたね...)
笠原さんはもちろんのこと、齋藤さん、根本さん、中尾さん、多田井さん、石橋さん、小西さん、荒金さん、井上さん、そして肥後さん…方々の大集合の日でした。
それから時を経た、あの大震災。
記念誌どころではありませんでしたね。こんなことやっている場合かと思った時期もありましたし、それは今でも変わりませんが、その気持ちは別のところにきちんと置いて、今は野球ができる喜びを味わい、そして私たちにできることをやろうと、そう思って歩んできました。
誤解を恐れず敢えていうならば、あの震災を境に記念誌メンバーのチームワークは階段をいくつも昇ったような気がしていました。
ハンドルネーム「社長」は、数々の決断を「瞬時」にしてくれました。トップであるもののあるべき姿です(おこがましいですが…)。
「本部長」と「事務局長」は、過去の歴史を調べ上げ、まとめあげてくれました。本部長とはまるで高校時代の彼女としゃべっているが如く、深夜に1時間以上にも及び話しをした時がありました(たぶん、記念誌仕事はほんの数分で、それ以外の話で盛り上がったような…)。事務局長は、細やかにアンカーマンの役割も務めてくれました。
想定外だったのが、スラッガーズの「肥後之守」。あったかくなった頃の第一公園のバックネット裏で突然奥さん(のちの肥後之守令夫人)を紹介してくれ、以降「記念誌プロジェクトチーム」を一段と盛り上げてくれました。「夫唱婦随」という言葉はこの夫妻のためにあるような、そんな仲間であったことには、誰も異を唱えないでしょう。二人で、区内の大会の歴史やら、イベント時の撮影やら、最後は1,100部にも及ぶ記念誌の納品場所の提供まで進んで買って出てくれ、そしてその重い荷を配付場所まで積み込み運んでもらい、その活躍ぶりをスラッガーズのチームの方々に直に伝えたい位です。
そして「師匠」。傍から見ると、特に忙しくなったような気がしたこの2011年。相変わらずの才能で、数々のプロ裸足の写真の提供に「想定内」ではありますが、感謝しきりです。10月の「国家試験」、「サクラサク」だったことだろうと推測しています。
それから「先生」。もういまさら書かなくてもいいですよね。何かの折りには、いつも相談しますし、お願いをしますからね。
「宮前は人材豊富ですね」。
読売巨人軍、鈴木さんの言葉です。
メンバーで無いにも関わらず、斜め俯瞰から「優勝旗」の写真や「カップ・トロフィー」の写真をスタジオで撮ってくれたメイツ古野さん、ありがとうございました。
ウルフ内田さん、宮前で唯一の1,800万画素のカメラを引っ提げ、毎大会の写真を撮ってくれてありがとうございました。
二人ともに後日談ですが、それぞれがそれにふさわしい職業につかれているとのこと。
まさに「宮前は人材豊富」です。
ハンドルネーム「編集長」として、内緒にしていたことが2つほど...。
1.チーム紹介ページの左上の「帽子の写真」。実は3チームだけ写真の左右の幅が足りなく、バックの芝を合成しています。個別に「校正依頼メール」を送ったので、その3チームはもちろんのこと、今もって誰も気づいていないんじゃないのかな。その3チームを全て当てた人には、私の手作りの「賞状」で、会長にお願いして表彰してもらいたいと思っています。
(ヒント:この記念誌メンバーの所属チームもその3チームの中の1チームです。これが判れば、他の2チームも判るかも?です)
2.最終入稿土壇場で、「ロゴマークの解像度が足りないチームがありますよ」とのメールがデザイナー氏よりあり。久々に怒りまして、トレースを指示。もしそのメールが無かったら、せっかくの記念誌の、中でもそのチームにとってはとても大切な「チーム紹介ページ」を台無しにしていたことでしょう。そのチームの1つが肥後之守のチームのロゴマークだったので、余計に怒髪天でした。そう言った意味では、最後にその確認メールをくれたデザインを担当のけやき平の青木さんにもデザインそのものの質ともども感謝しています。
最終的にこの土壇場でのロゴマークの解像度足りないチームは2チームでした。各チームにロゴマーク送付依頼をし、そのチェックを依頼していたデザイン・印刷担当会社を昨年末に変えた時期と被っていまして、それに起因している私のミスでした。土壇場ながらも完全データで入稿ができ事なきを得た次第でした。。
来年のなるべく早い時期に、記念誌メンバーの「卒団式」をやりましょう。
できれば辰年にちなんで「自分にとってのドラゴンボール(肥後之守令夫人以外は最低限のドラゴンボールはありますからね)」を持って。
社長、差配をお願いしますよ。
では皆さん、素晴らしき2012年となりますように。
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