2016年9月19日月曜日

小説「月に雨降る」24

「おまえの親に、いや、育ての親に会って対決してくるかんな。待ってろよ」
サチコを希伊とだぶらせて擬人化している龍一は、サチコの頭を撫でてそう言うと家を出た。しかし実はそのように言葉に出して言ってみることで、自分を鼓舞し奮い立たせるためもあったのだった。中野坂上から丸ノ内線で新宿へ出て山手線に乗り換え渋谷へ向かい、更に東横線で自由が丘を目指した。希伊と一緒に住んでいるころ実家の大まかな場所は聞いて知っていた。自由が丘の駅から奥沢方向へ五分ほど歩いたところに奥沢神社があった。鳥居に太縄で作った大蛇が巻き付いてまるで龍のようだと希伊が言っていたのを思い出す。『龍一の龍みたいだけど、目玉がめっちゃデカくって不細工なのに、なんか愛嬌があるんだよね』鳥居を見上げながら龍一は確かにその通りだと思った。知らない人が見たら大蛇を模したというより、龍を想像するかもしれない。
神社を右折して閑静な住宅街に入り幾度か角を曲がると、間もなくそれと分かる屋敷が見えてきた。希伊は実家や親のことをあまり話したがらない風(ふう)があったが、実際その屋敷の前に立つと思わず圧倒された。高い塀に囲まれて植栽の樹々の梢の向こうに三階建ての要塞のようなどしりとした家、というより建造物があった。グレーに光る鈍色(にびいろ)のタイルで鎧のように身をまとったそれは単一家族の住む家の匂いはなく、まるで数世帯が居住する小規模の高級マンションのような様相を呈していた。門柱にはしっかりと「永山」の重厚な表札が掲げられ、鋳鉄(ちゅうてつ)の堅牢な門扉の脇には、あたかも龍一の足元を見透かし睨むように監視カメラの冷たいレンズが光っている。龍一は想像以上の居丈高なその威容にいささかひるんでしまった。あの庶民的で愛嬌のある希伊が、こんな家で育ったのかと妙な感慨まで覚えたほどだった。
勇気を奮い起こしインターホンを押した。ほどなくして、はいどちら様ですかと、機械を通した中年女性の硬く乾いた声が聞こえた。
「私は神島と申します。永山さんにお会いしたく参りました」
一瞬の間を置いて事務的な返事が返ってきた。
「どちらのカミシマ様でしょうか。お約束はございますでしょうか」
龍一はどう言ったものか迷った。
「私はこちらのお宅の娘さん、希伊さんと懇意にしている者で...」
通り一遍の説明をしたところで相手にされないと考えて思い切って言ってみた。
「いえ、はっきり申し上げますと希伊さんと数年間一緒に暮らしていた者です」
インターホンを通じて言葉が電気信号に変換され向こうに衝撃波が伝わったようだった。微かに息をのむ気配があり、逡巡したのちに向こうの声が返って来た。その声は最初の声色(こわいろ)と違い微妙に柔らかく変化したように思えた。
「カミシマ様ですね。奥様にお伝えしますので、そのまましばらくお待ち下さいませ」
ずいぶん待たされたように思えた。五分にも十分にも感じられた。無性に煙草が吸いたくなったが我慢した。その間龍一は十月の晴れた青空を渡る風に、色づき始めた樹々の赤や黄色の葉が揺れるのをぼうっと眺めていた。俺はここでいったい何をしているんだろう。いい加減踵(きびす)を返そうかと思った時に、目の前の重厚なアイアンレースの門扉が自動でごとごと開き始めた。敷地内に足を踏み入れて玄関へ向かった。ここはまるで江戸時代の武家屋敷か豪商か何かの跡地で、数寄屋の広大な庭だけを残して家だけを近代建築で新築したみたいに思えた。昔このあたりまで武家屋敷があったものかどうかは知らないが、世田谷城に関係して奥沢城という城があったことは知っている。高校時代に高知の古い建築物と日本庭園をいくつも見て来た龍一は直感的にそんな想像をしてみた。それはまるで手つかずの大自然に突然舞い降りて来た銀色の宇宙船のように大きな違和感があった。
玄関の呼び鈴を鳴らすとすぐに待っていたようにドアが開けられた。そこにはごく普通の中年女性が立っていた。聡明そうな顔立ちに幾分戸惑いの色を隠せない表情をしていた。たぶん先ほどの家政婦なのだろうと思った。彼女の案内で屋敷の中へ入り、いくつかのドアを開けてたどり着いた部屋の豪奢な黒革張りのソファには、五十がらみの女性が座っていた。家政婦が龍一の来訪を告げるとその母親らしき女性はすっと立上がり、正面から龍一と正対した。希伊が言っていたとおり、希伊とは似ても似つかぬ容貌だった。若い頃はさぞかし美人だったろうと思われる容姿で長身で手足が細長く、しかし必要以上に塗り固めた濃すぎる化粧が気になった。さざ波のように寄る年波を厚化粧の堅牢な防波堤でせき止めているような印象を与えた。女性ならば仕方のないことなのかもしれないが、この人の場合は厚い鎧を身にまとうことで、自らその殻の中に閉じこもっているような気がした。
「初めまして、神島龍一と申します。今日はアポイントもなく突然にすみません」
こんな場で名刺を差し出すべきかどうか迷ったが会社の名刺を渡した。肩書きはやっと「設計部主任」だった。主任と言っても入社3年目の自分の下に部下はいない。
その女性は龍一を下から上まで検分するような目で見た。まるで厳格な女性教師が中学生の服装検査をするみたいに。出がけにジーンズをやめてコットンパンツにはき替え少しは気を遣ったつもりだった。そろそろ毛玉が付き始めた靴下を履いてきたのを少し後悔した。
「神島さんですね。永山奈津子です。どうぞお座り下さい。」

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