2016年9月14日水曜日

小説「月に雨降る」23

この年の元日は2000年ミレニアム問題から始まり、間もなくサザンの「TSUNAMI」が歴史的な大ヒットを記録し、夏にはシドニーオリンピックが開催された。百年ぶりの新世紀を迎えて世界中がどこか浮かれているように思えた。分厚いダッフルコートを脱ぎ捨てて、いきなり春の陽光のもとに躍り出たような気分だった。
龍一は世の中のうねりに流されながらも、毎日希伊が突然いなくなったことで空虚な日々を過ごしていた。会社での仕事に没頭しているうちは良かったが、中野坂上のアパートに帰り着くまでのあいだの夜道では、月面を歩く宇宙飛行士のように足が地に着いた気がしなかった。
しかし家に帰るとそこにはサチコが待っていた。犬のようにドアを開けるとしっぽを振って真っ先に玄関まで駆け寄ってくることはないのだが、帰宅した龍一を見るとみゃあと鳴き、ソファから飛び降りると前脚を思いきり伸ばし、尻をうしろに持ち上げて伸びをする。ついでにソファの腰の部分でばりばり爪研ぎをしたのちに、とことこ駆け寄りしっぽを龍一の脚に朝顔のツルのように巻きつけてご飯をねだるのだった。
「ごめんごめん、腹減ったよな」
と言いながら着替えもせずに缶詰を開けて皿にカポンと落とすと、サチコは一心不乱にぴちゃぴちゃと音を立てて時間をかけて平らげる。そのあとは口の周りを小さなピンク色の舌で何度も丹念に舐めたあとは、またソファに上がり龍一を一瞥しそっけなく丸くなってしまうのだった。そんなサチコが唯一心のネジを緩ませてくれる存在だった。人間に媚びないマイペースの猫の性癖ではあったけれど、夜寝る時は違った。龍一は必ずベッドに入る前にサチコを抱き上げて一緒に寝た。サチコは布団に入るととたんにグルグルと喉を鳴らしながら、自分の寝場所を何周も回りながら確認しとっぷりと横になる。大抵は龍一の腕と胸の間のわずかな空間だったが、時には腹の上に乗って寝始めることもある。龍一にはその小さな命の重みが心地よかった。たまに酔った日にサチコを忘れてベッドに潜り込むと、彼女は自分から龍一の上に飛び乗り、布団の隙間から中へ侵入して同じ作業を繰り返して寝るのだった。そんなサチコと暮らしているうちに、この子は希伊の生まれ変わりか、或いは希伊と入れ違いにやってきた、自分にとってかけがえのない命だと思うようになった。
サチコとの生活は楽しかったが、彼女を見ているとやはり希伊のことに思いが及ぶのだった。あの雨の日曜から二週間ほど経った頃、あのじいさんにもう一度会ってサチコのことを報告しようと思い立った。いや報告しなければいけないと思った。同じ日曜の朝早くに同じ場所で待っていれば、弁当工場へ行くじいさんに会えると考え、苦手な早起きをしてサチコを腕に抱いて連れて行ってみたのだが、しかしかなり待っても会えなかった。
龍一は気を取り直し、このまま朝の散歩にでも出かけようかという気になったが、まだ幼い子猫を抱えたままでは遠くまでは行けまいと思った。近くの公園までならばいいかと考えて、アパートから5分ほどの住宅に囲まれた小さな公園へ行くことにした。
予想どおり日曜朝早くの公園には誰もいなかった。そこは希伊とよく行ったことのある公園で、6個ほどあるベンチの中でも大きな楠(くすのき)の下にあるベンチが二人のお気に入りだった。そのベンチに座りサチコをそっと降ろしてみると、大きな目をこれ以上開けたら目玉が飛び出すのではと心配になるくらいに見開き、ゆっくりとベンチの匂いをかいで回った。しばらくするとベンチの上から下の地面を覗き込み、まるで針金で出来たアンテナのようにしっぽをぴんと立ててジャンプしようとするのだが、たっぷり逡巡したのち諦めて座り込んだ。まだ子猫のサチコにとってその行為は、テキサスの断崖絶壁から干からびた川へ飛び降りる行為に等しかったに違いなかった。彼女にとってはあの日以来初めての外出だった。龍一はこの子猫に思いを馳せた。どんな親猫たちの間に生まれた子なのか。いつどこで生まれたのだろう。それがどうやって人の手に渡り、そしてその人はどういう理由でこの子を捨てたのか。次第にその思考は希伊が話してくれた彼女の出自とだぶって見えてきた。希伊は自分という存在が曖昧模糊として己の確認が出来ないのに、人と結婚するなどは出来ない、というような事を言っていた。龍一は自問自答してみた。でもだからと言っていきなり家を出て失踪することはないじゃないか。仮に目の前に希伊がいるのなら、そんなことは自分は全く気にしていないと言いたかった。それでも希伊が納得しないのなら、これから二人でその確認作業を一生かけてやろうと。でも希伊の一度言い出したら曲げないという一途な性格も知っている。
「ん?知っている?」
俺は希伊の何を知っているというのだろう。彼女の顔、姿、形、体のどこにどんなほくろがあるか。声、癖、仕草、性格。優しさと厳しさ。勤勉と怠慢。それらのことは数年間の暮らしの中で熟知しているけれど、それで全てを知ったことになるのだろうか。逆に言えばそれ以外のことは何もまだ知らないのだ。俺は知ったつもりになっていて、本当はまだ何も知ってはいないということに気づかされた。龍一はすでに失ってしまった希伊のことを改めてもっと知りたいという欲望に駆られた。

そのためには希伊を探すしかない。
サチコを連れて家に帰り、土曜の晩から日曜までのあの日の記憶を懸命に思い出そうとした。日曜起床した時の記憶がそこにある。ベッド脇にある目覚まし時計などを置くための小さなテーブルに希伊の書き置きがあった。その紙片は手のひらサイズほどの薄いメモ帳の切れ端で、まだ机の引き出しにしまってある。小さく折り畳んで誰かにもらったモンブランの万年筆の空き箱にそっと保管していたのだった。もう一度それを取り出してみた。
『リュウ、ほんとうにごめんね。いつかまたその日がきたら逢いたいよ』
龍一はその文章を3回繰り返して読んだ。希伊は達筆とは言えないまでも素直で奇麗な字を書いたが、鉛筆を強く握る癖があり筆圧が強かったので、その字面はとても濃く毅然と何かを訴えているようだった。
じっと見ているとその紙面全体に目に見えないような細かい凹凸(おうとつ)があるように思えたが、そのことにこの時の龍一は気がつかなかった。龍一はその書き置きに何か妙な違和感を覚えながらも、また元通り紙を折り畳んでケースにしまった。

龍一は希伊の実家の永山家を訪ねることを決心した。

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