2016年6月21日火曜日

小説「月に降る雨」6

※この小説ブログは今回からタイトルを「月に降る雨」として連載を続けます。

その日は朝からひどい土砂降りの雨だった。空と稜線との境目が曖昧なグレーに溶けて、空を見上げると地球が巨大な灰色の風船の中に入ったような錯覚すら覚えた。こんなとき、世界中の鳥たちはいったいどうしているのだろう。樹々の葉陰で安穏と雨宿りできるほどの雨量ではなかった。天から垂直に降下する太く透明な槍は、容赦なく地表に突き刺さり、見る間に小さな川を道路のそこかしこにいくつも作っていった。
雨は意思を持たない龍一の背中にも無情に突き刺ささっていった。何本も、何本も。

恵比寿にある会社になんとか就職した龍一は右も左も分からないまま、毎日を必死で過ごしていた。インテリアデザインのノウハウや、業界で導入されはじめた、パソコンで設計図を描くCADの習得にも人一倍努力した。課長の鈴木孝雄はCADが導入されても、『俺はパソコンはやらないって決めたぞ』と勝手に宣言しディレクションはやるものの、図面は全て龍一に描かせた。むしろそのせいで龍一のスキルはみるみる上がっていった。孝雄のデザインと龍一の設計力で建築雑誌のデザインコンペにも入賞したこともある。
入社してまだ3年が経ったに過ぎないが、部内でも社内でも龍一は一目置かれるようになった。龍一は入社当時から自分に言い聞かせていた。この会社で安定して仕事ができる自信がついた時に、希伊と正式に一緒になろうと。プロポーズしても拒まれる理由は何も思いつかなかった。
希伊と出会ってから数年。龍一には彼女のいない日々は考えられなかったし、また、希伊にしても、龍一への思いは時に自分以上に強いのではないかと思うほど、固く結びあっていた。希伊は池袋のバイトをやめて龍一の会社のある恵比寿の飲食店で働いていた。龍一が定時に上がれて希伊が早番で夕方で終わる時は、決まって近くの店で待ち合わせをし食事をして帰った。孝雄や梅川、月地などを呼びつけて一緒に酒を飲んだこともある。二人の目の前には何も障害物がなかった、ように見えた。

『明日の関東地方は明け方から激しい豪雨になるでしょう』
テレビの天気予報を見ていた希伊は、
「しょうがないなあ」
と言ってベランダへ出て洗濯物を取り込み始めた。すでに夜の十一時を回っていた。
「バケツリレーやるか」
と言って龍一もベランダの希伊から洗濯物を受け取って部屋に積み上げる。何度目かの往復で龍一が外にいる希伊を見やると、彼女は雨雲に少し灰色がかった月明かりを、手すりにもたれてぼんやり見ていた。希伊のその後ろ姿に龍一は声をかけられないでいた。その背中は何かを強く拒否して誰も寄せつけない空気をまとっていた。一緒に住み始めて以来時折見せる希伊の頑(かたくな)な雰囲気だった。

その晩二人はいつにもまして激しく求め合った。固い背中に理由を訊きたくても訊けない龍一と、言いたくても言えない希伊の相反する感情が絡み合った。ベッドの明かりを付けて龍一は煙草をつけた。
今言わなければもう言えない気がした。
「あのさ、結婚しよっか」
龍一は満を持して言ったつもりだった。希伊から何も返答のないこわばった空気を払拭するように、龍一は馬鹿みたいに続けた。馬鹿にならないと自分が壊れそうだった。
「そして、数年後には子どもが生まれて、ここも手狭になったねとか言って、じゃあもう少し広いところに引っ越そうかなんてことになってさ、郊外のそこそこの家を探してさ、いっそのこと猫なんかも飼ったりしてね、毎日楽しく暮らすんだ。そのうち二人目の子どもなんか出来たりしちゃって...」
希伊が涙声でちいさく、しかし、強くつぶやいた。
「お願い、もう、やめて」

「こんなことに固執するわたしがおかしいのは分かってるつもりなの。リュウのことは全然大好きだし、リュウが思ってる以上に、わたしは、リュウがわたしを思ってるその百万倍好きだよ。最近のリュウを見てるとそろそろこういう話になるかなって思ってた。わたしとても嬉しいの。それは信じて。でも結婚と子どもはわたし、だめなの、どうしても。自分でも嫌になるくらいに」
希伊は降り始めた外の雨音に耳を澄ませるような表情で続けた。
「太陽が輝いてないと月も光らないよね。もし太陽が暗かったら月も真っ暗で、地球も永遠に夜のまま、朝がこない」
「地球は永遠に夜のまま」
「そう、地球は永遠に夜のまま」
「なぜなら、それは太陽が暗いから」
「そう、それは太陽が暗いから」

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