「いらっしゃいませ」
女子高生のアルバイトだろうか、十代らしき女の子が龍一をテーブルに案内してくれた。店内はやはり古かったがメンテナンスが行き届いているようで、不快な感じはなくその古さがむしろ好感を抱かせた。店主のこの店に対する愛情が感じられる、そんな空気感があった。カウンター席が6席にテーブル席は十数卓、土曜午後夕方のアイドルタイムにしては席は埋まっており、そこそこ繁盛しているみたいだった。客層も家族連れからサラリーマン風、大学生のカップルなど様々だった。静かすぎずうるさくもなく、店内には心地よい適度な喧噪が漂っていた。その喧噪の中に混じってさりげなく店内に流れる、エルトンジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」のBGMが龍一の記憶に微かに触れた。恵比寿の真壁の店でよくかかっていた曲だった。店内を見渡し目を引いたのは、かなり年配の老人が独りで文庫本を読んでいた姿だった。老人が独りで本を読める店に悪い店はない。龍一がインテリアデザイナーとして自分なりに作った基準、良い店かどうかを判断するひとつのバロメーターだった。しかし昔希伊と来た時の印象とはまるで違っていた。あの時は若い店員の応対がぞんざいで少し鼻についた覚えがあったし、今の床は表情の豊かな上質のテラコッタタイルが貼ってあるが、当時のフローリングはがさがさで床の入り隅にはほこりが溜まって、定期的なメンテナンスがされていないのは明白だった。
龍一はアルバイトの女の子を呼んでアイスコーヒーを頼んだ。明るくはきはきした声でカウンターの奥へオーダーを通す。カウンターの向こうはかすかに見える程度だったが、オープンキッチンになっているようだった。注文を受けて声が返って来た。
「はあ~い」
龍一の腕に鳥肌が立った。
まさか。
忘れもしない少し鼻にかかったような独特の懐かしい声。二人で暮らした若かったころ、何千回も何万回も聞いていたあの声だった。呆然としながら惚(ほお)けたように固まってしまう龍一。しばらくしてアイスコーヒーをトレンチに載せて、その彼女は龍一のテーブルにやって来た。あの懐かしい声で言った。
「お待たせしました」
なぜか咄嗟に顔を伏せて下を向いてしまった。龍一の視界には彼女の小さなスニーカーしか目に入らなかった。キャップを被っていた龍一の顔は相手には見えないはずだった。視界からスニーカーが去って行く。頃合いをみてゆっくり顔をあげた。カウンターのレジに立つその人はいた。
彼女は間違いなく希伊だった。
今でも軽く茶色に染めたショートカットの髪をさらさらと揺らせながら、にこやかに客と応対している。ストライプのゆったりとしたTシャツの上からでもそれと分かるほどの、豊かな稜線も健在だった。時に小首をかしげ眉間に皺を寄せて、時に笑いながら仕事をしている彼女がそこにいた。年齢は龍一と同じだから、それなりの歳を重ねて来た痕跡は明らかだったが、むしろ若いころよりも成熟したひとりの女としての魅力が増しているように思えた。龍一の記憶の中の希伊と、今ここにある現実の映像がぴたりと合致した瞬間だった。
しかしどうしても希伊に声をかけることが出来ずにいた龍一だった。そこへ突然ドアがあいて小学生の男の子が入って来た。背中に背負ったリュックに金属バットを差して。希伊とアルバイトの女の子がにっこりして同時に言った。
「お帰り、カズヤ」
更に希伊は男の子の帽子を取って乱暴に頭をなでると、中腰になって少年と目線を同じにしながら笑って声をかける。
「今日の試合はどうだった。ヒット打てたかな、カズヤ。」少年は「あ」とか、「うん」とかうつむきながらもごもご反応していたが、希伊はすかさず笑いながら言う。
「ははん、さては打てなかったんだろ。よおし、次がんばれよお、ドンマイ」
少年は勝手知ったる我が家のようにキッチンの奥へ走っていった。オープンキッチンにはもう一人のスタッフだろうか、中年の女性が働いているようだった。
普通ならば母と息子の微笑ましい光景だったが、龍一の目には失望の入り交じった光景に映った。やはり希伊は結婚し子どもをもうけて幸せに暮らしていたんだ。半ば予想していたこととはいえ、それを現実に目の当たりに確認してしまうと急速に冷静になっていった。俺は何をしにここへ来たのだろう。希伊に声をかけて互いに驚き、昔話に花が咲き、じゃあ元気でねと、そして俺はひとり東京へ帰る。希伊にしたところで、幸せな家庭を築いているところへ昔の男がのこのこやって来ても困惑するかもしれない。ましてや彼女は一方的に蒸発したようなものだから、俺に対して少なからず負い目があるはずだった。俺が現れたことで彼女はますます自分を責めはしないか。いやそれ以前に、俺のことなどもうとうに忘れているかもしれない。全ては自分の独りよがりで金沢まで来た。相手の気持ちをおまえは考えたのかと、もう一人の俺が詰問する。龍一は何よりも希伊のこの幸せそうな笑顔を壊すようなことはしたくなかった。
しばらくすると店に五十がらみの男が入ってきて、そのままキッチンへまっすぐ向かって行った。希伊はにっこりして「おはよう、お疲れさま」と言って彼のために通路を空けた。飲食業界では昼でも夜でも「おはよう」という挨拶をするのが慣例だ。彼が夫なのだろうか。混乱する頭の中で龍一はコーヒーを一気に飲み干した。苦い味が喉を通過した。
もう希伊を取り戻すことは出来ないんだ。
このまま帰ろうか。
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