昨日のブログは夜、ある所からiPhoneで投稿した。Minamiの2度めの外泊許可が出たとのことで、夕方から宮前区内の娘の家へすっ飛んで行ったんである。その後娘夫の母とうちの配偶者と筆者3人で飲んだのであった。
「めざましテレビ」の大塚さんがTVに生で出演した日、歌舞伎の団十郎が没した。
大塚さんはリンパ性白血病を克服しての復活。団十郎は骨髄性白血病との長年の闘病の結果、肺炎を併発しての悲しい最後。リンパ性は復帰率が高いのに比して、骨髄性は決して高くない。何か皮肉な結果ではある。
Minamiは後者である。
目に入れても痛くないどころか、目に入れてころころ遊ばせてしまってしまいたいくらいのMinamiが、正月に続き自宅へ2泊の予定で帰ってきた。仕事そっちのけでいそいそ出かけた。抵抗力が弱いため感染症が怖いのであるが、病院からの許可が出たのだろう、外を軽く散歩、近くのローソンへ行ったりして。ガラスウィンドウには「上作延ノンキーズ」始めたくさんの少年野球チームの部員募集ポスターが貼ってあった。昨日投稿の写真では防寒重装備でフードをかっぽり被っているから分らないけれど、頭髪はほとんど無いに等しい。でも本人は至って気にしてないのがせめてもの救いである。
昨年11月から入院してほぼ3ヶ月。なんとか順調に推移しているとのこと。抗がん剤の副作用も軽いほうらしい。病院で同室の男の子はやはり同じ病なのだが、副作用がとてもひどい状態なのだそうだ。Minamiが幸運だったと思うと同時に、その見知らぬ男の子のことにも思いを寄せると気が晴れない。その子にも「頑張れ」と祈ってみる。
娘は一日も休まず病院通い。驚いたのは娘夫のKazumaも忘年会と風邪をひいた3日間だけ除いて、仕事が終わり次第、毎晩Minamiの顔を見に病院へ通ったそうだ。日本中で、世界中で、いろんな難病と闘う親子に頭が下がる思い。
フレンズ母たちの手作りの千羽鶴を見て、Minamiは「わあ、きれい!」と言ったそうだ。
知らぬ間に言葉も少しずつ覚えているみたいだ。
がっつり抱っこした。ちいさくて柔らかい感触。
いつものようにチューしたかったけれど、オヤジ菌が感染するといけないと、必死に思い留まったのは言うまでもない。
このブログを通じ、筆者いろんな方にお気遣いいただいたわけで、そのご厚意に感謝すべく途中経過報告にて、今日は書いてみた。
またいずれ良い報告が出来るようになりたい。
気分を変えて。
うちのワンコ、「りん」の変な写真をアップ。眩しいので目を細めているのだが、なんだか面白い絵になった(^-^)/
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2013年2月7日木曜日
2013年2月5日火曜日
2013年2月3日日曜日
グランドに感謝
何しろ年が明けてからこのかた、1月はグランド使用が全滅だったんである。
雪が降ったり霜がおりたりのグズグズ状態で、天からはさんざん降りてきたが、小学校からの許可はおりなかったわけで。
それでもしぶとくコーチや父たちがあちこち駆け回り、時間と場所を確保してトレーニングは実行していたようだ。子どもたちは大人に感謝しなきゃである。
今日はやっと文字通り晴れてグランドでの練習となった。今月はシーズン開幕で新チーム初のグリーンカップがあるし、オレンジボール東京本大会も控えているわけで、ほっと胸をなで下ろした。
キャッチボールやノックもそこそこに今日はいきなり紅白試合を敢行である。
5年以下のレギュラーチームと下級生チーム。6年生の3人は下級生チームに入り試合開始。これで人数がギリギリなのがちょっぴり痛々しい。今年も本気で人を集めないとヤバイのである。
しかし今の子たちはそんなことなどどこ吹く風の又三郎。昨日今日と久々の広いグランドで伸び伸び野球をやっていた。
冬のあいだじゅう校庭が使えない雪国の少年たち。更にまだグランドどころか野球も出来ないでいる被災地の子たちに一瞬思いを馳せてみた。
グランドで野球が出来る喜び。しっかり感謝しよう。
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雪が降ったり霜がおりたりのグズグズ状態で、天からはさんざん降りてきたが、小学校からの許可はおりなかったわけで。
それでもしぶとくコーチや父たちがあちこち駆け回り、時間と場所を確保してトレーニングは実行していたようだ。子どもたちは大人に感謝しなきゃである。
今日はやっと文字通り晴れてグランドでの練習となった。今月はシーズン開幕で新チーム初のグリーンカップがあるし、オレンジボール東京本大会も控えているわけで、ほっと胸をなで下ろした。
キャッチボールやノックもそこそこに今日はいきなり紅白試合を敢行である。
5年以下のレギュラーチームと下級生チーム。6年生の3人は下級生チームに入り試合開始。これで人数がギリギリなのがちょっぴり痛々しい。今年も本気で人を集めないとヤバイのである。
しかし今の子たちはそんなことなどどこ吹く風の又三郎。昨日今日と久々の広いグランドで伸び伸び野球をやっていた。
冬のあいだじゅう校庭が使えない雪国の少年たち。更にまだグランドどころか野球も出来ないでいる被災地の子たちに一瞬思いを馳せてみた。
グランドで野球が出来る喜び。しっかり感謝しよう。
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2013年2月2日土曜日
何が暴力なのかについて
普段からここで稚拙な文章を垂れ流している筆者が、自分の文章力を顧みず、こともあろうに今大問題となっている「体育会系の暴力的指導」について、言葉を選択しながら論じるのはいささか腰が引ける。ここ数週間TVやネットのニュースに上がるたび、仕事の手を止めてじっくり自分なりに咀嚼していた。しかし咀嚼してもなお、いまだに喉元を通過しきれていないのである。ニッポンが猫も杓子もこぞって「暴力100%反対」という時勢に対して、どこか割り切れない何かが、胸の中に澱んでいるのを自覚しているからだ。でもいつかは書かなければという、妙に後ろから追い立てられるような使命感、かつ焦燥感みたいなものがあった。
大阪桜宮高校のバスケ部員の自殺に端を発し、全日本柔道女子の告訴状がJOCに送られ、監督解任にまで至った連日のマスコミ報道は周知のこと。問題はこれからだと思うのである。今回の体罰や暴力が何も、高校の部活やオリンピックナショナルチームの問題に限ったことではないことは、報道を見ている読者諸氏も感じていることであろうと思う。特にスポーツに関わった経験者なら尚更だ。筆者はたまたま、少年野球指導者の端くれにいるわけで、特に自分の置かれている環境に準じて、事件を置き換えてみてしまう。我がフレンズはどうなのか。うちの宮前のチームはどうなのだろうかと。高校野球ではいまだに「体罰・暴力」的指導は根強くあるであろうし、小中高大学社会人に至るまで、他のスポーツ団体においても少なからず同じ問題を孕(はら)んでいるはずだ。おそらく橋下大阪市長が言うところの抜本的な学校再建や、全柔連による監督解任だけで丸く収まる話ではなかろう。スポーツ界も越えて日本のあらゆる教育や指導というものに対して、ニッポン総国民「体罰・暴力」反対に大勢が傾くに違いない。
筆者ももちろん「暴力」は大嫌いだ。小さい頃は友達とよく取っ組み合いの喧嘩もしたが、基本的に肉体的な争いごとは好きではない。スポーツとしての肉体的競合はやるのも観るのも好きだけれど。国際的な世界基準としても体罰を与えて熱血指導するなどは、およそ考えられないことらしい。桑田真澄氏が熱く説くように「体罰・暴力」的指導は百害あって一利無し、にも頷ける。
「暴力はいけない」は当たり前である。
では果たして暴力の定義とは何なのだろう...。
ネットでさっくり調べてみた中で、こんなのがあった。
例えば電車を待っている列に並んでいたとする。電車がホームに滑り込んできたとする。すぐ目の前のバカカップルがイチャイチャして前に進もうとしないとする。電車の発車チャイムが鳴っても尚、遅々として乗り込もうとしないとする。こんな時普通ならどうするか。思い切り罵声を浴びせることも選択肢のひとつではあるが、オトナならば少し手のひらやカバンでもって相手の背中を前へ押し込むように、それとなく促し啓蒙してやることであろう。「あとがつかえてんだぞ、さっさと乗れよなっつーの」なんて心で毒づきながら。
ところがである。この行為も法律上は「暴力行為」になるんだそうだ。相手の衣服や体に触れたとたんに法的実効力を伴うのだ。一般常識からして裁判上はおとがめ無しになるのだが、これって如何なものかと思う。一般常識に鑑(かんが)みて一般常識から逸脱した法律でいやしまいか。
何が暴力でどこからが体罰なのだろう。
筆者が斜(はす)に構えすぎて天の邪鬼なのだろうか。もちろん暴力や体罰を容認するものでは決してないけれど、これからこのニッポン、どうなるのであろうかと杞憂する。例が不適切かもしれないが、極論すればどこかしら、戦時中のイタリアのファッショに通ずるような全体主義に走ってしまうのではないか。世間の目に怯えて言いたいことも言えず、大勢(たいせい)に迎合してしまう人が増えることになるだろう。おそらく昨日まで子どもの頭を軽くはたいていた野球指導者も、明日からは手のひら返すように「暴力反対」を声高(こわだか)に叫ぶことだろう。
ちょっと前の話ではあるけれど、某アイドルが10代の頃喫煙だか飲酒だかをやっていたことを、若かりしころのやんちゃな記憶としてブログで軽く書いたら、芸能界から抹殺されたということがあったと思う。そのうち近い将来、少年野球指導者として子どもの頭を軽くはたいたことを回想録としてブログに書こうものなら、速攻「幼児虐待、暴力、体罰」の権化(ごんげ)として、当局に逮捕起訴されて控訴も認められず325年の刑に処せられることになるかもしれない。
翻(ひるがえ)って「言葉の暴力」。パワハラのひとつである。
園田監督は選手に対して「死ね」と言ったそうだが、前後の文脈がどうだったかは知る由もないが、事実とすればこれはいけない。
「言葉の暴力」は時に肉体の傷よりも心の傷のほうが根深く残るものだ。体の傷は治るけれど心の傷は一生トラウマとなって暗闇の奥で癒えずにいることがある。かく言う筆者も今では少なくなったと思うけれど、若い頃は煮えたぎる思いを相手にぶつけて論破しても、どうにも気分が悪く、「どうしてあんなヒドイことを言ってしまったんだろうか」とその晩、猛省のあまり、眠れない日があったりした。反省するくらいなら最初から言わねばいいものをと。
「差別用語」の対極にあるものとして「言論の自由」がある。
ずいぶん昔、「差別用語」ではないとして「言論の自由」を訴えた作家連合があった。確か筒井康隆氏が筆頭だったと記憶する。身体に障害を持つ方への差別的用語はもとより、「左利き=ぎ○ちょ」や「インスタントカメラ=バカチョ○カメラ」「独身者=チョ○ガー」など列挙すればきりがない。差別的感情を以てしてそれを言葉に書いてしまうことはもちろんいけないことだと思う。しかし、なんでもかでも、締めつけるのは正に自由の剥奪、言論統制に繋がりかねない。そのボーダーラインをどこに線引きするか、難しい問題ではあるけれど。
暴力や体罰はいけないことと思うけれど、感じ取る側に暴力や体罰を受けたという認識があるかないかにもよるところが大きいはずだ。技術的な瑕疵(かし)ではなく、だらだらとした練習態度に対して、指導者が目の前で我が子に対して叱責することも果たしてパワハラになってしまうのか?近い将来親によっては「うちの子に対してなんて酷いことを!訴えてやる」と意気込む向きもあろうが、逆によくぞ言ってくれた、もっと厳しく指導して欲しいと解釈する親もいるのも事実である。受け手の受け取り方で大きく変わってしまうのだ。
連日の報道に忸怩(じくじ)たる思いをちょっぴり抱えながらやっと書いてしまったけれど、ここまで書いておきながら言葉足らずでまだスッキリしない気分である。
ダメなものは絶対ダメだけれど、だからといって、極端な規制に盲目的に大勢がなだれ込んでしまう風潮を危惧してしまうのである。
以前にも書いたような気がするけれど、最後に高校時代のエピソードをひとつ。
筆者の年代だから肯定的な話になってしまうのかもしれない。校内暴力が日本中を席巻していた頃の年代の人には真逆の想いがあるやもしれないのだが。これを美談として、すなわち暴力を肯定するものでは決してないことは、賢明な読者ならご理解いただけるはず。
公立男子高校3年生の秋。
学園祭で模擬店を企画して気心知れた友人数人で喫茶店をやった。喫茶「アリス」当時ラジオの深夜放送でハマっていた、谷村新司のバンド「アリス」にあやかったものだ。山形では誰も知らない時代である。
売上から原価を差し引いてのささやかな純益で打ち上げをやった。多少やんちゃ坊主だった俺たちは深夜の居酒屋で乾杯。ナナハンで来ていたヤツはジュースで乾杯であったが、筆者も含めてほとんどが慣れないビールを飲みタバコをふかした。ちょっぴり「不良」になった気分であった。
翌日朝学校に行くと、ある理由があって飲酒が学校にばれていた。
速攻全員職員室に呼ばれる。陣頭指揮に当たったのは柔道部顧問でもあり体育の先生でもあり俺の担任でもあった、H先生。普段から生徒には厳しく頭をたたく、ケツを蹴るなんて当たり前。俺たち生徒からは陰でバカにされながらも、本当に嫌いなヤツはいなくどこか憎めないキャラの先生であった。
個別事情聴取のあと、全員一列に並ばされた。
「いいか、おまえら!今から顔をビンタするから歯をくいしばってしっかり立っていろっ!」
一人ひとりへの制裁のビンタの乾いた音が職員室に響き渡る。
俺の番になった。
ぐっと奥歯を噛み締め、H先生の目を見据える。
先生の目は赤く涙を流していた....。
成人して結婚し自分に子どもが出来て人の親になり、初めてあの時の先生の涙を理解したように思う。手を挙げたほうにも心の痛みがあるのだということを。
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大阪桜宮高校のバスケ部員の自殺に端を発し、全日本柔道女子の告訴状がJOCに送られ、監督解任にまで至った連日のマスコミ報道は周知のこと。問題はこれからだと思うのである。今回の体罰や暴力が何も、高校の部活やオリンピックナショナルチームの問題に限ったことではないことは、報道を見ている読者諸氏も感じていることであろうと思う。特にスポーツに関わった経験者なら尚更だ。筆者はたまたま、少年野球指導者の端くれにいるわけで、特に自分の置かれている環境に準じて、事件を置き換えてみてしまう。我がフレンズはどうなのか。うちの宮前のチームはどうなのだろうかと。高校野球ではいまだに「体罰・暴力」的指導は根強くあるであろうし、小中高大学社会人に至るまで、他のスポーツ団体においても少なからず同じ問題を孕(はら)んでいるはずだ。おそらく橋下大阪市長が言うところの抜本的な学校再建や、全柔連による監督解任だけで丸く収まる話ではなかろう。スポーツ界も越えて日本のあらゆる教育や指導というものに対して、ニッポン総国民「体罰・暴力」反対に大勢が傾くに違いない。
筆者ももちろん「暴力」は大嫌いだ。小さい頃は友達とよく取っ組み合いの喧嘩もしたが、基本的に肉体的な争いごとは好きではない。スポーツとしての肉体的競合はやるのも観るのも好きだけれど。国際的な世界基準としても体罰を与えて熱血指導するなどは、およそ考えられないことらしい。桑田真澄氏が熱く説くように「体罰・暴力」的指導は百害あって一利無し、にも頷ける。
「暴力はいけない」は当たり前である。
では果たして暴力の定義とは何なのだろう...。
ネットでさっくり調べてみた中で、こんなのがあった。
例えば電車を待っている列に並んでいたとする。電車がホームに滑り込んできたとする。すぐ目の前のバカカップルがイチャイチャして前に進もうとしないとする。電車の発車チャイムが鳴っても尚、遅々として乗り込もうとしないとする。こんな時普通ならどうするか。思い切り罵声を浴びせることも選択肢のひとつではあるが、オトナならば少し手のひらやカバンでもって相手の背中を前へ押し込むように、それとなく促し啓蒙してやることであろう。「あとがつかえてんだぞ、さっさと乗れよなっつーの」なんて心で毒づきながら。
ところがである。この行為も法律上は「暴力行為」になるんだそうだ。相手の衣服や体に触れたとたんに法的実効力を伴うのだ。一般常識からして裁判上はおとがめ無しになるのだが、これって如何なものかと思う。一般常識に鑑(かんが)みて一般常識から逸脱した法律でいやしまいか。
何が暴力でどこからが体罰なのだろう。
筆者が斜(はす)に構えすぎて天の邪鬼なのだろうか。もちろん暴力や体罰を容認するものでは決してないけれど、これからこのニッポン、どうなるのであろうかと杞憂する。例が不適切かもしれないが、極論すればどこかしら、戦時中のイタリアのファッショに通ずるような全体主義に走ってしまうのではないか。世間の目に怯えて言いたいことも言えず、大勢(たいせい)に迎合してしまう人が増えることになるだろう。おそらく昨日まで子どもの頭を軽くはたいていた野球指導者も、明日からは手のひら返すように「暴力反対」を声高(こわだか)に叫ぶことだろう。
ちょっと前の話ではあるけれど、某アイドルが10代の頃喫煙だか飲酒だかをやっていたことを、若かりしころのやんちゃな記憶としてブログで軽く書いたら、芸能界から抹殺されたということがあったと思う。そのうち近い将来、少年野球指導者として子どもの頭を軽くはたいたことを回想録としてブログに書こうものなら、速攻「幼児虐待、暴力、体罰」の権化(ごんげ)として、当局に逮捕起訴されて控訴も認められず325年の刑に処せられることになるかもしれない。
翻(ひるがえ)って「言葉の暴力」。パワハラのひとつである。
園田監督は選手に対して「死ね」と言ったそうだが、前後の文脈がどうだったかは知る由もないが、事実とすればこれはいけない。
「言葉の暴力」は時に肉体の傷よりも心の傷のほうが根深く残るものだ。体の傷は治るけれど心の傷は一生トラウマとなって暗闇の奥で癒えずにいることがある。かく言う筆者も今では少なくなったと思うけれど、若い頃は煮えたぎる思いを相手にぶつけて論破しても、どうにも気分が悪く、「どうしてあんなヒドイことを言ってしまったんだろうか」とその晩、猛省のあまり、眠れない日があったりした。反省するくらいなら最初から言わねばいいものをと。
「差別用語」の対極にあるものとして「言論の自由」がある。
ずいぶん昔、「差別用語」ではないとして「言論の自由」を訴えた作家連合があった。確か筒井康隆氏が筆頭だったと記憶する。身体に障害を持つ方への差別的用語はもとより、「左利き=ぎ○ちょ」や「インスタントカメラ=バカチョ○カメラ」「独身者=チョ○ガー」など列挙すればきりがない。差別的感情を以てしてそれを言葉に書いてしまうことはもちろんいけないことだと思う。しかし、なんでもかでも、締めつけるのは正に自由の剥奪、言論統制に繋がりかねない。そのボーダーラインをどこに線引きするか、難しい問題ではあるけれど。
暴力や体罰はいけないことと思うけれど、感じ取る側に暴力や体罰を受けたという認識があるかないかにもよるところが大きいはずだ。技術的な瑕疵(かし)ではなく、だらだらとした練習態度に対して、指導者が目の前で我が子に対して叱責することも果たしてパワハラになってしまうのか?近い将来親によっては「うちの子に対してなんて酷いことを!訴えてやる」と意気込む向きもあろうが、逆によくぞ言ってくれた、もっと厳しく指導して欲しいと解釈する親もいるのも事実である。受け手の受け取り方で大きく変わってしまうのだ。
連日の報道に忸怩(じくじ)たる思いをちょっぴり抱えながらやっと書いてしまったけれど、ここまで書いておきながら言葉足らずでまだスッキリしない気分である。
ダメなものは絶対ダメだけれど、だからといって、極端な規制に盲目的に大勢がなだれ込んでしまう風潮を危惧してしまうのである。
以前にも書いたような気がするけれど、最後に高校時代のエピソードをひとつ。
筆者の年代だから肯定的な話になってしまうのかもしれない。校内暴力が日本中を席巻していた頃の年代の人には真逆の想いがあるやもしれないのだが。これを美談として、すなわち暴力を肯定するものでは決してないことは、賢明な読者ならご理解いただけるはず。
公立男子高校3年生の秋。
学園祭で模擬店を企画して気心知れた友人数人で喫茶店をやった。喫茶「アリス」当時ラジオの深夜放送でハマっていた、谷村新司のバンド「アリス」にあやかったものだ。山形では誰も知らない時代である。
売上から原価を差し引いてのささやかな純益で打ち上げをやった。多少やんちゃ坊主だった俺たちは深夜の居酒屋で乾杯。ナナハンで来ていたヤツはジュースで乾杯であったが、筆者も含めてほとんどが慣れないビールを飲みタバコをふかした。ちょっぴり「不良」になった気分であった。
翌日朝学校に行くと、ある理由があって飲酒が学校にばれていた。
速攻全員職員室に呼ばれる。陣頭指揮に当たったのは柔道部顧問でもあり体育の先生でもあり俺の担任でもあった、H先生。普段から生徒には厳しく頭をたたく、ケツを蹴るなんて当たり前。俺たち生徒からは陰でバカにされながらも、本当に嫌いなヤツはいなくどこか憎めないキャラの先生であった。
個別事情聴取のあと、全員一列に並ばされた。
「いいか、おまえら!今から顔をビンタするから歯をくいしばってしっかり立っていろっ!」
一人ひとりへの制裁のビンタの乾いた音が職員室に響き渡る。
俺の番になった。
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2013年1月30日水曜日
アートは電気羊の夢をみるか
仕事の話で恐縮至極なんである。
ただしデザインや設計の職業柄、企業のコンプライアンス、守秘義務が常につきまとうので、ブログなんかでつまびらかには出来ないから、具体的名称や固有名詞なんぞはボカさなきゃなんである。更に筆者が棲息するこの業界、最後の最後で大ドンデン返しや、仕事の話そのものが消滅することも珍しくはない。この業界のみならず、オトコの仕事には大なり小なりこれは付きものなのだろう。
それで今回のブログである。
今日この仕事が突然ポシャッてしまったので書けるわけで。継続していたら完成するまでこのブログには書けない。
先日恵比寿時代の懐かしい人から電話があり、とあるお菓子メーカーの包装紙のデザイン、イラストの仕事が舞い込んだ。筆者今では店舗設計業界でうごめいているのだけれど、学生の頃、進路はインテリア設計かグラフィックデザインかで迷ったこともある。だからいまだにイラストやグラフィックの仕事は大好きなんである。
オーダー内容のファクターは「スカイツリー」「浅草寺五重の塔」「桜」である。
この組合せでのイラスト制作。日曜にネットで資料収集。それを元に手描きのイラストを描いて組み合わせてスキャンし、MacのAdobe「PhotoShop」というソフトで着彩という段取りであった。
先日iPhoneの写真アプリでスケッチ風に撮れるものを紹介したけど、プロが使うソフト「PhotoShop」ではなく、素人でもパソコンで編集加工できるソフトを発見したんである。ガッツリ写真資料を収集したあと、このソフトで加工した画像を紹介してみたい。
アメリカの「無料ソフト」というより「無料サイト」である。
自分の対象画像をこのサイトにアップして、数十種類の画風から好きなものを選べば瞬時に加工してくれるのだ。デスクトップに保存も可能。
まずはスカツリ。
左がオリジナルで右はアウトラインだけを抽出したもの。
次が浅草寺五重の塔。これを元に手描きのペンでトレースする予定だった。
桜。スケッチ風と水彩画風に変換してみる。
最後は背景になる青空バック。これはゴッホ...いや、...じゃないな、ゴーギャン風に変身しちゃった。「アルルのはね橋」にしては明るすぎるもんね。タヒチっぽい色合いだもの。
なんかこれ1枚だけでもいい絵だなあと感心してしまう(^-^)
なんともコンピュータ様さまである。素人でもなんでも出来ちゃうから怖い。プロの領域と素人のそれとの分水嶺は、もはや曖昧模糊とし誰でも「なんちゃってアーティスト」になれちゃう時代。フィルムからデジカメに移行したひと昔前はその最たるものだ。誰でも失敗なく綺麗な写真が撮れてしまう。そこでプロが生き伸びる手だては....「感性」=「センス」しかないわけで。
それはさておき、このサイト、無料だしなかなか面白いので興味のある方は是非どうぞ。
英文づくしなので最初は腰が引けてしまうけれど、適当にイジっているとスイスイいけちゃう。子どもの写真や、家族やペット、憧れのタレントの写真など一風変わった画風に変えてみるも良し。
※HPトップの「Start Having Fun」をクリックして、あとは自己責任で路頭に迷っているうち自然とオモシロ写真が出来ちゃうはず。下をクリックでどーぞ。
befunky.com
※今日のブログタイトルは知る人ぞ知るのパロディーなんである。
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ただしデザインや設計の職業柄、企業のコンプライアンス、守秘義務が常につきまとうので、ブログなんかでつまびらかには出来ないから、具体的名称や固有名詞なんぞはボカさなきゃなんである。更に筆者が棲息するこの業界、最後の最後で大ドンデン返しや、仕事の話そのものが消滅することも珍しくはない。この業界のみならず、オトコの仕事には大なり小なりこれは付きものなのだろう。
それで今回のブログである。
今日この仕事が突然ポシャッてしまったので書けるわけで。継続していたら完成するまでこのブログには書けない。
先日恵比寿時代の懐かしい人から電話があり、とあるお菓子メーカーの包装紙のデザイン、イラストの仕事が舞い込んだ。筆者今では店舗設計業界でうごめいているのだけれど、学生の頃、進路はインテリア設計かグラフィックデザインかで迷ったこともある。だからいまだにイラストやグラフィックの仕事は大好きなんである。
オーダー内容のファクターは「スカイツリー」「浅草寺五重の塔」「桜」である。
この組合せでのイラスト制作。日曜にネットで資料収集。それを元に手描きのイラストを描いて組み合わせてスキャンし、MacのAdobe「PhotoShop」というソフトで着彩という段取りであった。
先日iPhoneの写真アプリでスケッチ風に撮れるものを紹介したけど、プロが使うソフト「PhotoShop」ではなく、素人でもパソコンで編集加工できるソフトを発見したんである。ガッツリ写真資料を収集したあと、このソフトで加工した画像を紹介してみたい。
アメリカの「無料ソフト」というより「無料サイト」である。
自分の対象画像をこのサイトにアップして、数十種類の画風から好きなものを選べば瞬時に加工してくれるのだ。デスクトップに保存も可能。
まずはスカツリ。
左がオリジナルで右はアウトラインだけを抽出したもの。
次が浅草寺五重の塔。これを元に手描きのペンでトレースする予定だった。
桜。スケッチ風と水彩画風に変換してみる。
最後は背景になる青空バック。これはゴッホ...いや、...じゃないな、ゴーギャン風に変身しちゃった。「アルルのはね橋」にしては明るすぎるもんね。タヒチっぽい色合いだもの。
なんかこれ1枚だけでもいい絵だなあと感心してしまう(^-^)
なんともコンピュータ様さまである。素人でもなんでも出来ちゃうから怖い。プロの領域と素人のそれとの分水嶺は、もはや曖昧模糊とし誰でも「なんちゃってアーティスト」になれちゃう時代。フィルムからデジカメに移行したひと昔前はその最たるものだ。誰でも失敗なく綺麗な写真が撮れてしまう。そこでプロが生き伸びる手だては....「感性」=「センス」しかないわけで。
それはさておき、このサイト、無料だしなかなか面白いので興味のある方は是非どうぞ。
英文づくしなので最初は腰が引けてしまうけれど、適当にイジっているとスイスイいけちゃう。子どもの写真や、家族やペット、憧れのタレントの写真など一風変わった画風に変えてみるも良し。
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