2019年5月12日日曜日

昨日と今日の群雄割拠

防犯大会初日であった。宮前少年野球のメッカ第一公園の第一試合はウルフVSバーズ戦。初回Wは1点先制ののち更に3回にも4点を加点し、5:0とする。奮闘するはマウンドのKai。

しかしその裏Bも奮起し1点返し5:1の展開に。だがWもすぐさま2点追加で7:1と差を確実に広げる訳で。


バーズKawataさんと、大昔娘などがお世話になった名将Kobayashiさんも見えていた。
結果はそのまま8:1でWの圧勝であった。

さてジャビット決勝同士で有馬対決となったアリコとフレンズが、なんの因果かこの防犯でも初戦で相見(あいまみ)えることになった。アリコ的にはいわゆるリベンジ、絶対負けられない戦いがそこにはある...的な気分であるに違いない。もし立場が逆ならフレンズだって同じ思いであったろう。今年のアリコ打線の破壊力は「打線は水モノ」とは無縁で、毎試合長打の連発である。それがこの試合でも維持してくるであろうことは分かっていた。果たして...。

初回AKはなんと1番から4番までの連続長短打攻勢で一挙3点先制す。やはり筆者の類推は現実のものとなった。投手の台所事情が苦しいAF、波乱の船出となった。

AFには「打線は水モノ」の野球格言がしっかり根付いている。豪速球にキリキリ舞いと言う内容ではなく、打てるはずなのに打ちあぐねて気がつけば凡打の山、と言う感じであった。

ペロリカウンターもすっかり定着した。
AK、2回表にはまたしても1番から5番までの猛攻打線が爆発、更に5点追加し序盤で8:0と予想外の展開となったんである。


つい先日某ローカル大会で横浜のチームと対戦したAF。チーム事情により相手はほぼオール5年生で、AFはそれに合わせて下級生中心に対峙した。物凄い大差がつき10点のビハインドのフレンズ。途中からベンチはメンバーをガラリ入れ替え6年生を投入し、Akiのホームランも飛び出し、最終回その10点差を一気にひっくり返しサヨナラゲームとしたんである。このまま負けるわけにはいかない。最後まで諦めるなAF。
一死満塁でManatoのレフト前への凡飛、適時単打と思われたその打球は更にレフトに接触せずその頭上を越えて後方を転々とする。一気に走者が還り更に俊足韋駄天Manato
も本塁生還したのだった。守備の連携を筆者は見ていなかったのでなんとも言えないが、公式記録は不明なれど、AF的には満塁ランニングホームランとしたい。これで4点を返す展開に。

更に最終回AFはAki、Manatoの二人の頼れる主砲の連打で1点入れて8:5と肉薄するも、後続を絶たれて敢え無く終了、8:5で敗退が決まった。
AKは主力選手一人を欠いてもなお、その穴を埋めて余りあるほどの打撃力。対するAFは序盤の大量失点が大きく響き後半の追い上げも手が届かなかった。ようやく溜飲を下げたAKだったに違いない。同時にフレンズの防犯大会は、その意気込みに反して早々に幕を閉じたのだった。昨日の勝者は今日の敗者。まさに群雄割拠の今季宮前なんである。

さて三試合目はスラッガーズVSヤング戦。初回表裏に珍しい記録が出た。おそらく両軍ベンチから好球必打、初級ストライクから積極的に打ちに行けとの作戦が....あったかどーかは知らないが、表裏打者6人、一人を除き全て第1投を打ちにいき、合計投球数7球で6アウト。たった7球で1回表裏が終了しちゃうと言うシーンであった。ペロリカウンターを確認。運営席も本部も審判も苦笑いと言うか失笑しちゃうのであった。

ヤングAにはQのMeiがいる。健気にチームを応援していた。

大方の予想に反して(と言ってはSに失礼だが)中盤にSが6点先制し6:0とする波乱の展開に。Yベンチ監督IshikuraさんやSakoさんが檄を飛ばすも閉塞感漂うまま試合は後半へ...。

しかあーーし、何が起こるか分からないのが今年の宮前群雄割拠。筆者戦場を後にしたのち、連盟速報を受け取ればY軍が逆転に成功し、8:15の大差でヤングなんであった。
帰り際にiPhoneでベンチの背中をかシャリ。

......
さて、一日明けて今日は日曜。昨日の悔しい思いは払拭し筆者はまた第一公園球場へ愛車相棒赤カブにて急行す。来年のフレンズ40周年に関してFujisawaさんやSatohさんにご教授願うためだったこともあり、連盟広報としても三試合を記録している。その辺のサックリ写真ブログはまた次回なんである。
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2019年5月11日土曜日

スーパーカブログ

山形の公務員の父を持つ家庭の子どもだった僕は、小学生の頃自転車で風を切って走るのが大好きだった。近所の大人の引率で僕を含めた子ども数人と断層や地層を調べに、一日かけて山へ遠出したこともある。ある時なぜだか山形スケートセンターへ一人で出かけた。髪も薄くなったが記憶も薄くなったから名称も目的も定かではないが、小学生が一人で出かけるには相当遠くにあったように思う。その帰りHONDAの販売店に寄ってみたのである。炎天下の夏休みだっただろうか。ホンダN360の新車が置いてあって、勝手に運転席に乗り込みハンドルを回したりして遊んだ。今では考えられない大らかな時代である。当時はそんな子どもがいても店員は気にも留めなかったようだ。運転席の何かの数値を示すむき出しの薄い金属盤が、猛暑の熱でひんめくれていたのを強烈に覚えている。金属盤裏面の黄色いボンドが糸を引いてビタンビタンになっていたのだった。子どもながらにも悲しい気分になった。

子どものくせに一人でHONDA販売店に寄ったのには訳がある。本が好きだった僕は学校の図書室で初めて小説の面白さに出会った。モーリス・ルブラン「怪盗ルパン」とコナン・ドイル「シャーロックホームズ」を何冊も読み漁った。その勢いで読んだ本が「本田宗一郎伝記」だった。当時はもちろん本田宗一郎はバリバリの現役社長だったが、存命中にも関わらず伝記本が出版されるのは変だなんて、子ども心に分かろうはずがない。のちにホンダのクルマに関するアイディア募集というキャンペーンがあって、子どもながらに一生懸命考えたアイディアをハガキにイラスト付きで東京本社へ送ったこともある。雨の日でもフロントガラスに死角ができないワイパーを考案したのだった。やなせたかしの未来予想イラストや鉄腕アトムに夢中だった頃である。若干荒唐無稽ではあったがちゃんとメカニズムも勘案して描いた。今にして思えばあの頃の「僕」は天才ではないかと思えるのであるが、「神童、二十歳過ぎればただの人」という格言の通り、今ではどこにでも転がっているただのオッサンになってしまったけれど。
だからその後HONDAのN360の貧相な金属盤の作りに悲哀を感じてしまったのだった。小学生にしてHONDAファンになったのは本田宗一郎伝記本とN360の二つがリンクして、これが原点だった。

青春期は中学時代が一番濃密だった。同級生40名の名前は姓も名も未だに覚えている。その後男子高生になった僕。HONDAファンだったと豪語しておきながら、舌の根も乾かないうちからYAMAHAのバイクの話である。貧乏だったにも関わらず、親に土下座して頼み込んでなぜかバイクを買ってもらった。現在の公務員の給与体系は大企業並み、仕事の能力の有無、法令違反や公序良俗に反しない限り解雇はないし、倒産で一家が路頭に迷う心配もない。しかし大昔の公務員は「安月給」の代名詞だった。「親孝行、したいと思う時に親は無し」まさに名言。当時の親の年齢に近づいた僕は、親孝行したいと思ってもすでに両親ともに他界。無理を聞いてくれた親に感謝しつつ、あの頃の高校生だった俺をぶん殴ってやりたい。泣きたいくらいに...。

さて当時ブイブイ言わせながら夜の山形バイパスをかっ飛ばしていたのが、YAMAHAのTY50と言う原付だった。今と違って原付と言えどもガタイはデカく、スピードも100km以上めちゃくちゃ出たのだった。もちろん50ccなので決して暴走族とかではなかったが、夜のバイパスを飛ばしていると、「今コケたら確実に死ぬな」と思いながらアクセルを全開にしていた記憶がある。
当時乗っていたバイクがこれ。ネットで検索したら簡単に出てきた。

オフロードタイプで、近くの公園(名前はあこや公園だったか?)でアクセルターンやウィリー走行して遊んでいた。アクセルターンは片脚を円の中心にして固定し、バイクを斜めに倒しタイヤエッジで円を描く技。走行中くるっと回って回転しながらストップさせる。確か仮面ライダーでもやっていたと思う。アクセルをふかしてクラッチを急激に放すウィリーは、後転の危険性と紙一重でドキドキしながらやっていた。
ホンマかいな?と訝(いぶか)しがる読者諸兄の疑念を払拭するために、古いアルバムを繰って探し出した一枚がこれ。高校三年の頃、自宅に遊びに来た甥っ子をシートに乗せて遊んだ時のもの。その甥っ子も今は山形で40半ば過ぎ、バリバリ仕事に励むオヤジになった。それにしてもあの頃の「僕」は髪の毛が暑苦しいほどにウザいくらいあった。アラン・ドロンの風をなびかせる「栗色のマッドレー」みたいに。あるいはピーター・フォンダの「イージーライダー」のように。

ここまで文章長くなった。明日は野球で朝早いというのに。しかし、まだ冗長に長いんである。ここからは「僕」を封印しいつもの一人称単数「筆者」にて。

つい数年前、フレンズの新年会で子供達が今年の目標を言う場面があった。「今年はホームランを打ちたいです」「今年はチームのためにベンチで応援を頑張ります」とかとか。筆者の挨拶の番になって私はこう述べた。「僕の今年の目標はバイクを買い換えたいです!」内心ひとりごちた。「宝くじが当たったらね」と。

その頃狙っていたのはもちろんHONDAのDUNK。原チャリらしからぬそのスタイリッシュな風貌にぞっこんなんであった。テールランプはLED、バッテリーからUSBポート経由でスマホの充電も出来るし、何しろ他の原付スクーターとは一線を画しカッコ良かったんである。赤が欲しかったがオレンジしかなかった。当時フレンズOBのハーレーライダーのInoueオヤジに相談したこともある。「コレ、原チャリにしてはマジ、カッコいいわ」と同意してくれた。

仕事の忙しさにかまけながら、時は過ぎ、いつの間にか今年シルバーの新製品も出ていた。買うならコレだと再び気分が高揚した。中古車でも十分よかったのだけれど。
時の過ぎゆくままに〜、この身を任せ〜、ていたら、いつの間にあれから数年経っていたのだった。

ほとんどこれにしようと思っていたんであった。しかし昨年の同窓会の思いが胸をよぎる。

はい、転じてホンダスーパーカブなんであった。
1958年生まれのカブは、昨年2018年に「還暦60周年」を迎えたと言う情報に接し、筆者の胸にムクムクと沸き起こる何かがあった。まさに筆者と同じ年齢だったのだ。ちなみに1958年(昭和33年)は東京タワーの竣工でもある。

仕事を終えると連日カブのことを夢中でネットで調べ上げた。全世界で1億台生産したこと、故障が極端に少ないこと、燃費に至っては奇跡的な数値を維持していること、カスタマイズは安価で自由度が高いこと、今でもカブファンが多くいること...。QueensKoshimizuさんやSohmaさんが絶賛していたことも背中を押した要因の一つである。東南アジアでは街中を走っているバイクのことを全て「HONDA」と呼称しているそうだ。その昔化学調味料全てを味の素と言ったように。あるいはコピー機全てをゼロックスと呼んだように。

スタイリッシュなダンクからちょっと古くてダサいと言う評もあるカブに傾倒した一番の大きな理由は「60th」である。
同じ1958年生まれの60歳。と言えば昨年山形中学の還暦大同窓会。あの頃の同級生「3年9組」でLINEグループを形成したことを何度かここに書いているので周知の通り。エポックメイキングと言えば大仰(おおぎょう)ではあるけれど、あの頃の楽しい青春時代に戻ったような、自分的には「39LINE」を通じて、今でも望郷の念とともに活発に交流していることは実に大きな出来事だった。
その還暦を迎えた同級生や自分と、カブの60周年がカブったのであった。カッコよく言えばリンクしちゃったんである。

そこからは怒涛の勢いでカブにカブりつく毎日。暇さえあればネットで最安値の「60thアニバーサリーマグナムレッドカブ」を検索する。

60thレッドは若干高い。レッド以外ではイエローカブが良いと思ったのだけれど、フレンズOB母が今でもイエローカブ(NYのイエローキャブではない)に乗っている手前、真似したなあ、と思われたくないし、カブりたくないから意地でも還暦レッドにこだわりたい訳で。しかも今月5月末の61歳の誕生日を迎えれる前に、どーしても今のうちに60thカブを手にする必要があったのだった。もちろんちっぽけなこだわりではあるけれど。さらに言えば宝くじが当たった訳でもない。ゆえに毎日の酒タバコはもちろんのこと、食費を浮かせるために飲まず食わず、水も摂取せず空気も吸わず、毎日息を止めて清貧の生活を強いられることになりそーである。

と言うワケでとうとう購入しちゃったんである。赤カブと言えば「郵政カブ」。いわゆる郵便屋さんのアレである。その昔逓信省(ていしんしょう)...いやいやそんな昔ではない、郵政省とHONDAの共同開発で作った赤カブ。又の名をMDカブ(MD=メールデリバリー)と言う。他にもプレスカブ(新聞配達)、ビジネスカブ、クロスカブ、ストリートカブ、ハンターカブ、カブラ...など60年の間に様々に派生してきたのだった。

先日郵政カブにちなんでこんな写真を撮った。筆者「郵便局でバイトを始めた」と同級生LINEにアップしたら一部一瞬信じちゃったらしい。
街中で見かけるお馴染み郵政カブはこんな感じ。(写真はプラモデル)

郵便局前で撮ったのがこれ。確かに一瞬郵便屋さんのカブに見えるではないか。

種明かし。偶然向こうに本物の郵便カブもいた。

先日このブログのために近隣の公園へ行って写真を撮ったんである。
うーむ実にセクシーで可愛い、愛おしくなる新しい相棒である。

結婚した娘が残していった原チャリはこれ。今まで相棒として走ってくれてありがとう。第一公園へはどーにかこーにかたどり着けるが、第四公園ともなると宮前平駅から富士見台小のウルフ坂を登坂中に、マフラーから盛大な白煙を吹き出し、周囲の車もろとも世界中がロンドンの霧に包まれたように真っ白の世界に埋没しちゃうから、費用対効果的にも買い替えは急務だったんである。ごめんねYAMAHAヴィーノ、今までありがとう。

箸休めPart1。
この公園で一服してるとベンチ背後に野良のニャンコが出没。すかさずカメラを向けると彼女は言った。
「どこ見てんのよ〜!」
ふくよかな胸元に目が行っちゃうのは男の常。他意はないので、...いや本当はあるか、許されたしなんである。

真っ赤なボディーに、あえて真っ白ではなく、古めかしいアイボリーのコンビネーションカラーも悪くない。スーパーカブ60thアニバーサリー特別記念車キー。2,800台限定生産らしい。しかも熊本の国産車である。

別の日に撮った写真。このHONDAの帽子は昨年Amazonで購入。最近知ったことだが、女優の本田翼は本名である。お父さんがやはりHONDAファンで、娘が生まれた時にHONDAのトレードマークの翼にちなんで「本田翼」と命名したそうだ。この話を知ってオジサン的にはますます本田翼が可愛く思えて仕方がない今日この頃である。

カブと言えば驚異的な燃費。ネット記事によれば前回ガソリンを入れた時期を思い出せないほどらしい。カタログ数値ではリッター100km超え。流石に現実的には無理としてもそれでも70〜80km行っちゃうみたいである。ある意味小さなバケモノである。購入後走行距離22kmの時に満タンにして今66km。ほとんど満タンのまま針がちっとも動いてないではないか。

坂道ははっきり言ってツライ。前のオンボロ原チャリの方が数段パワーがあってギュンギュン登って行った。カブはトロいしギヤチェンジが面倒であるが、それを面倒と思うか楽しいと思うかで好き嫌いが別れると思う。Q総監Koshimizuさんが言う「バイクを操る楽しさ」がこれである。トロトロ走っていると後続車には申し訳ないが、今はカブに乗るのが楽しくて仕方ない。この坂の登坂に最適なギヤは2速かいっそローで行くか。それを最適な選択で遅いながらスムーズにシフトアップして操縦する感覚は、あの高校生の頃に山形のバイパスをギヤチェンしながら疾走していた空気とリンクして、実に楽しいのであった。
ただし、スピードの出し過ぎは禁物である。昨今の高齢者や飲酒運転の無謀で悲惨な事件の報道を垣間見るたびに思うことだ。しかし50ccはスピード制限30kmは時代に沿った法令とは言い難く、せめて40〜50kmにしてほしいと思うのは筆者だけではない。二段階右折の縛りも旧態依然である。

さて今日。後ろに載せたケースにステッカーを貼った。いっそのことありったけのアイテムを掲載したんである。宮前少年野球連盟、フレンズ、Queens、当ブログ「晴耕雨読」、仕事のロゴTeshimaDesignWorks、の5種。連盟ロゴマーク以外は全て筆者がデザイン、制作したもの。目立つ真っ赤なボディーに加えてこのステッカー。もう巷(ちまた)で悪いことは出来ない。

※ナンバープレートに写真加工したのは、数年前にNPO法人と宮前少年野球連盟も加わり、女子中学野球組織を作ろうとした機運に後押しされて、連盟からの依頼で筆者が試作したチームロゴである。「川崎シスタージャイアンツ」。これは当時の連盟の限られたメンバーしか知らない。その後すったもんだ、時を経ずしてボツ企画となり幻のロゴとなったけれど。

箸休めPart2。
うちのワンコ、りん。仕事中はずっと背中と椅子の背もたれの間でグースカ寝るメスワンコである。

気がつけば、やっべ、こんな時間。03:20。ついHONDAやカブや中学同級や昔のことに思いを馳せて長くなった。これでもまだ書き足りないくらいである。

一応ブログタイトルは「スーパーカブログ」と、例によってダジャレめいているが、もしサブタイトルを冠するならば、
「思い出せないほど昔だけど、想い出せる昔もある」

明日土曜は防犯大会、大事な初戦であった。午後は帰宅して仕事、夕方はフレンズ父母会なんであった。
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