2016年9月14日水曜日

小説「月に雨降る」23

この年の元日は2000年ミレニアム問題から始まり、間もなくサザンの「TSUNAMI」が歴史的な大ヒットを記録し、夏にはシドニーオリンピックが開催された。百年ぶりの新世紀を迎えて世界中がどこか浮かれているように思えた。分厚いダッフルコートを脱ぎ捨てて、いきなり春の陽光のもとに躍り出たような気分だった。
龍一は世の中のうねりに流されながらも、毎日希伊が突然いなくなったことで空虚な日々を過ごしていた。会社での仕事に没頭しているうちは良かったが、中野坂上のアパートに帰り着くまでのあいだの夜道では、月面を歩く宇宙飛行士のように足が地に着いた気がしなかった。
しかし家に帰るとそこにはサチコが待っていた。犬のようにドアを開けるとしっぽを振って真っ先に玄関まで駆け寄ってくることはないのだが、帰宅した龍一を見るとみゃあと鳴き、ソファから飛び降りると前脚を思いきり伸ばし、尻をうしろに持ち上げて伸びをする。ついでにソファの腰の部分でばりばり爪研ぎをしたのちに、とことこ駆け寄りしっぽを龍一の脚に朝顔のツルのように巻きつけてご飯をねだるのだった。
「ごめんごめん、腹減ったよな」
と言いながら着替えもせずに缶詰を開けて皿にカポンと落とすと、サチコは一心不乱にぴちゃぴちゃと音を立てて時間をかけて平らげる。そのあとは口の周りを小さなピンク色の舌で何度も丹念に舐めたあとは、またソファに上がり龍一を一瞥しそっけなく丸くなってしまうのだった。そんなサチコが唯一心のネジを緩ませてくれる存在だった。人間に媚びないマイペースの猫の性癖ではあったけれど、夜寝る時は違った。龍一は必ずベッドに入る前にサチコを抱き上げて一緒に寝た。サチコは布団に入るととたんにグルグルと喉を鳴らしながら、自分の寝場所を何周も回りながら確認しとっぷりと横になる。大抵は龍一の腕と胸の間のわずかな空間だったが、時には腹の上に乗って寝始めることもある。龍一にはその小さな命の重みが心地よかった。たまに酔った日にサチコを忘れてベッドに潜り込むと、彼女は自分から龍一の上に飛び乗り、布団の隙間から中へ侵入して同じ作業を繰り返して寝るのだった。そんなサチコと暮らしているうちに、この子は希伊の生まれ変わりか、或いは希伊と入れ違いにやってきた、自分にとってかけがえのない命だと思うようになった。
サチコとの生活は楽しかったが、彼女を見ているとやはり希伊のことに思いが及ぶのだった。あの雨の日曜から二週間ほど経った頃、あのじいさんにもう一度会ってサチコのことを報告しようと思い立った。いや報告しなければいけないと思った。同じ日曜の朝早くに同じ場所で待っていれば、弁当工場へ行くじいさんに会えると考え、苦手な早起きをしてサチコを腕に抱いて連れて行ってみたのだが、しかしかなり待っても会えなかった。
龍一は気を取り直し、このまま朝の散歩にでも出かけようかという気になったが、まだ幼い子猫を抱えたままでは遠くまでは行けまいと思った。近くの公園までならばいいかと考えて、アパートから5分ほどの住宅に囲まれた小さな公園へ行くことにした。
予想どおり日曜朝早くの公園には誰もいなかった。そこは希伊とよく行ったことのある公園で、6個ほどあるベンチの中でも大きな楠(くすのき)の下にあるベンチが二人のお気に入りだった。そのベンチに座りサチコをそっと降ろしてみると、大きな目をこれ以上開けたら目玉が飛び出すのではと心配になるくらいに見開き、ゆっくりとベンチの匂いをかいで回った。しばらくするとベンチの上から下の地面を覗き込み、まるで針金で出来たアンテナのようにしっぽをぴんと立ててジャンプしようとするのだが、たっぷり逡巡したのち諦めて座り込んだ。まだ子猫のサチコにとってその行為は、テキサスの断崖絶壁から干からびた川へ飛び降りる行為に等しかったに違いなかった。彼女にとってはあの日以来初めての外出だった。龍一はこの子猫に思いを馳せた。どんな親猫たちの間に生まれた子なのか。いつどこで生まれたのだろう。それがどうやって人の手に渡り、そしてその人はどういう理由でこの子を捨てたのか。次第にその思考は希伊が話してくれた彼女の出自とだぶって見えてきた。希伊は自分という存在が曖昧模糊として己の確認が出来ないのに、人と結婚するなどは出来ない、というような事を言っていた。龍一は自問自答してみた。でもだからと言っていきなり家を出て失踪することはないじゃないか。仮に目の前に希伊がいるのなら、そんなことは自分は全く気にしていないと言いたかった。それでも希伊が納得しないのなら、これから二人でその確認作業を一生かけてやろうと。でも希伊の一度言い出したら曲げないという一途な性格も知っている。
「ん?知っている?」
俺は希伊の何を知っているというのだろう。彼女の顔、姿、形、体のどこにどんなほくろがあるか。声、癖、仕草、性格。優しさと厳しさ。勤勉と怠慢。それらのことは数年間の暮らしの中で熟知しているけれど、それで全てを知ったことになるのだろうか。逆に言えばそれ以外のことは何もまだ知らないのだ。俺は知ったつもりになっていて、本当はまだ何も知ってはいないということに気づかされた。龍一はすでに失ってしまった希伊のことを改めてもっと知りたいという欲望に駆られた。

そのためには希伊を探すしかない。
サチコを連れて家に帰り、土曜の晩から日曜までのあの日の記憶を懸命に思い出そうとした。日曜起床した時の記憶がそこにある。ベッド脇にある目覚まし時計などを置くための小さなテーブルに希伊の書き置きがあった。その紙片は手のひらサイズほどの薄いメモ帳の切れ端で、まだ机の引き出しにしまってある。小さく折り畳んで誰かにもらったモンブランの万年筆の空き箱にそっと保管していたのだった。もう一度それを取り出してみた。
『リュウ、ほんとうにごめんね。いつかまたその日がきたら逢いたいよ』
龍一はその文章を3回繰り返して読んだ。希伊は達筆とは言えないまでも素直で奇麗な字を書いたが、鉛筆を強く握る癖があり筆圧が強かったので、その字面はとても濃く毅然と何かを訴えているようだった。
じっと見ているとその紙面全体に目に見えないような細かい凹凸(おうとつ)があるように思えたが、そのことにこの時の龍一は気がつかなかった。龍一はその書き置きに何か妙な違和感を覚えながらも、また元通り紙を折り畳んでケースにしまった。

龍一は希伊の実家の永山家を訪ねることを決心した。

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2016年9月13日火曜日

全国のLINEユーザーさまへ

銀座6丁目の仕事で、金曜から月曜今日までこんこんと図面を描いていたんであった。フレンズのオレンジボールも歩いて3分の西有馬ドームでやっていたにもかかわらず、試合観戦にすら行けなかったんである。今日もやっとこさ終わったのはつい先ほどの23:30。日曜も23時くらいまでかかってしまった。

さて、その日曜の夕方頃の話なんである。
LINEのピコピコピンが鳴ったわけで。Macの図面を睨みながらiPhoneを手に取った。フレンズオヤジ飲み会のお誘いだろうか?最近やってないからなあ。
ん?宮前区内の他のチームの方からだった。その方を仮にAさんとする。その人とは数年前ある出来事があった時に連絡を取り合って番号を交換したんであった。その後お互いに番号登録しているので、自動的にLINEで「お友達」にもなった。たまに公式戦でお会いすると軽く談笑する仲ではある。とても誠実で控えめな方なんである。筆者のほうが年上ということもあり、タメで話すことなど絶対ないわけで。

ところが.....。LINEの文面にはこう書いてあった。
「番号教えて。ラインの確認メッセージを認証してもらえる?」

「むむむ?」

知らないヤツなら「ははあ、これヤバいヤツだな」と直感で分かり無視しちゃうのだが。
ところがAさんのプロフィール画像はちゃんとそのチームの子どもの写真になっていたし、Aさんの下の名前も、秋季連盟冊子を調べたらちゃんと符号していたんであった。だからAさん本人からかと、ちょっと半信半疑ながらLINEで返した。
「Aさん、こんばんは。Teshimaです。
番号は○○でーす。」と。

1分後にクイックレスポンス。
「四桁の認証番号が届いたら送ってね」

ますます混迷の度合いが深まるではないか。普通なら「○○のAです。こうこう、こういう理由でTeshimaさんの認証が必要なので、うんぬん...」と来るのが礼儀だろうて。
そしたら今度は「LINE」アカウントからメッセージが届いた。
「他人には絶対教えないで下さい。あなたの認証番号は○○です。」的な内容だった。これは本当のLINE本体からである。

もっと早くに気づくべきだった。そこで筆者Aさん(本当はAさんではない)に返した。
「ホントにAさんですか?」
この返事次第で真贋(しんがん)を見極めてやろうと。
返ってきた返信は下の画像を見てちょ。...こりゃ詐欺だと思った。

巧妙な新手のSMS犯罪だなと思い、筆者はルパン三世のスタンプを送ってやったんである。
下の写真では相手のニセAさんの画像が抜けているが、実際はちゃんと○○チームの子どもの写真画像と登録してある名前が書いてあるんである。これが来たら普通は信用しちゃうわけで。

その後ぱたりとLINEが来なくなった。
番号を教えてしまったが大丈夫なんだろうか。そんなことより、仕事に追われてすぐに忘れてしまった。

※下の画像は日曜日に、更に「LINE」から来たLINEのメッセージ。このブログをアップして、翌日思い出したので追加で入れておく。

翌日の今日月曜日。
気になってパソコンで「LINE、認証、詐欺」みたいな検索ワードでググってみたんである。
いやはや全く同じ文言が並んでいた。
昨年から新手の詐欺手段で、ある人のアカウントを乗っ取り、その人になりすまして発信する手口なんだそうだ。引っかかると個人情報がごっそり持っていかれちゃうらしい。
被害者であるAさん本人に知らせなきゃと思い、LINEではなくメールで教えてあげたら、Aさんも昨日気づいてすぐ自分のアカウントを削除したそうだ。大変恐縮していた。
Aさんにはとんだ災難でしたねと、返したが、明日は我が身、怖いものである。

筆者とLINEで繋がっている、ともだち、知り合い、友人、知人、ついでに恋人、愛人、痴人、奇人、変人のみなさまへ。
もし筆者の帽子をかぶったワンコの画像付きで私の名前でこのようなLINEが来たら、
進撃の巨人のような堅牢な壁を築いて防御していただき、
ドラゴンボールの瞬間移動のような電光石火で私に連絡をいただきたい。

全国のLINEユーザーさまへ。
同じ轍(てつ)を踏まぬようにと、老婆心ながら警告を発した次第でした。
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2016年9月11日日曜日

祝優勝!広島カープ

昨日新しい茅ヶ崎の物件仕事で、筆者の古巣である、一番好きな街である、二十代前半を過ごした恵比寿へ行ってきたんであった。本籍もいまだに恵比寿なんである。
7,8月はとんと仕事が暇で、特に8月は皮膚科と歯科医に足しげく通い医療費がバカにならず、そろそろ半年くらいマグロ船に乗るか、または臓器摘出しアジアの闇市場へ売るかと懸念していたのだったが、ここにきて少し忙しくなってしまった。

でもってこの土日は月曜締め切りまでのみっちり仕事なんであった。今やっているのは「銀座6丁目再開発計画」の一端の仕事。旧松坂屋跡地の例のアソコである。
しかし、今日はカープの優勝決定戦がある。だもんで仕事しながらNHKを観るわけで。
なので、ここから先は、アンチカープファンは読まないでいただきたい。
逆にカープファン、野球ファン、少年野球ファン、換気扇ファン、空調ファンの方々はどーぞどーぞ、なんである。

結婚して二十代の頃は熱狂的カープファンだった。初優勝し、更に数年後また優勝したのち日本シリーズでも優勝したのを知ったのは、山形から東京へ着いた上野駅の売店にあった、スポーツ新聞を手に取った瞬間だった。

あれからウン十年。
今は当時ほどの熱狂的な気持ちはなくなってしまったし、プロ野球自体あまり観なくなってしまった。それでもカープがいまだに最高に好きだ。他球団とは一線を画す球団の歴史、その理由によるものである。
ヘビロテ読者ならご記憶にあるだろうか。数年前ブログにも書いたけれど、広島マツダスタジアムへ行ったことがある。最近「マンホールカード」なるものが密かなブームであるけれど、マニアでなくともこのマンホールは思わず写真に収めたくなるというもの。
※当時のブログ写真から。

その時に球場の外で買った応援Tシャツ(背中はKURIHARA)を着用して、仕事しながらTV観戦。当時と違うのは仕事用の老眼鏡がぶらさがっていることである。

今なら黒田のTシャツを真っ先に買うに違いない。
優勝の瞬間、男気黒田と「どのツラ下げて帰ってきたんですか新井さん」の新井の涙を見た瞬間、すでに筆者の頬を伝わっていた熱い液体の流れに、更に拍車がかかって激流となってしまった。
9回裏ツーアウトになって自分がカープナインだったなら、緒方、黒田、新井の三人を胴上げしたいと思っていたが、全くその通りになった。

実は先日マツダスタジアムで優勝するかもとのことで、思い切って広島へ行こうかとも思ったんであるが、チケットがめっちゃ取れないので諦めたんである。
まだクライマックスと日本シリーズはあるけれど、なんといってもこの「リーグ」優勝がプロ野球最大の華だ。
「コロンブスの卵」と言われても仕方ないが、例年5月を過ぎるとカープはトップ争いから脱落するんであるが、今年の5月時点で筆者は「今年は絶対優勝する」と確信していたんであった。これホント。

おめでとう、ありがとう、祝優勝!広島カープ!

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2016年9月5日月曜日

小説「月に雨降る」22

翌朝龍一たち三人は、天文館からリムジンバスに乗り鹿児島空港へ向かって車中の人となった。短時間の道中だったが三人ともすぐ眠りに落ちた。特に龍一は一昨日からたっぷり体にまとわりついた累積の寝不足で熟睡と言っていいほどの深い眠りを貪った。空港へ着き全国的な快晴のもと十時の便で羽田へ飛んだ。龍一の座席は機体の後ろのほうだったがこの日はラッキーだった。主翼のすぐ真横の席では眼下の景色はほとんど見えないからだ。今日の快晴の日にこの席になったことを嬉しく思った。静岡近くになると左手の眼下にぽっかりと口を開けた富士山の火口が間近に迫ってきたのだった。ほぼ真上から見るそれは月のクレーターをもっと高く作り上げたような精緻な造形物のようだった。あの富士山を空の上から見下ろしている自分が不思議でならなかった。普段は都会の地べたを這いずり回るようにして生活しているのに、今の自分は空に浮いて圧倒的に非現実的な光景を目の当たりにしている。

龍一はこんな状況に置かれると、いつも心が二十六歳の時に失ったひとりの女のことを想い起こす。希伊のことだった。あの土曜の晩の月を見上げながらベランダに佇む希伊の虚ろな横顔。柔らかい唇と熱い小さな舌先の感触。滑らかな肌の高低差の大きい起伏に富んだ丘陵と、ショートカットの髪の匂い。希伊が初めて口にした出自の秘密。生来の明るいはじけるような笑顔と、その裏に隠してきた複雑な哀しい生い立ち。翌朝の豪雨の中で町じゅうを彷徨したこと。灰色の月に降り注ぐ冷たい雨の感触。老人とサチコとの出会い、そして由美に助けられたこと。あれから十五年間、龍一はほぼ毎日のように希伊のことを想った。なにげない日常のふとした瞬間でもそれは不意にやってくる。特に雨の日の朝と月が出ている晩はその記憶が顕著に蘇って来て、龍一の心の襞がぞわりと波打つのだった。
あの日以来龍一はその希伊への想いを断ち切るように仕事に埋没するようになった。目の前にある仕事に真摯に向き合っている時だけはあの記憶の呪縛から解放された。仕事帰りの夜道ではなるべく空を見上げないようにした。そこに月が浮かんでいると思い出さざるを得ないからだったのだが、しかし最後にはどうしても上を向いて暗い夜空に月を探してしまう自分がいるのだった。
しかし本当は龍一には分かっていた。自分は希伊の記憶から逃れようとしているのではなく、むしろあの記憶にすがって生きていることを。年を重ねるごとに数年間一緒に暮らした希伊の記憶の映像が少しずつ色を失い、徐々に細部が消失し始めることが恐怖だった。昔撮ったフィルムの写真が年を経るごとに少しずつ色褪せて黄変してしまうように。そんな過去の記憶に翻弄されている自分は男として情けないと思った。見えない誰かにそれを指摘され嘲笑されるのが怖かった。その後勢いで結婚し子どもをもうけてからも、誰が見ているというわけでもないのに、それを悟られないように慎重に生活をし大胆に仕事にのめり込んだ。

羽田行きの飛行機はとうに富士の上空を過ぎ行き、もうすぐ神奈川だったが龍一はまだ過去と現在の思いに耽っていた。

そして四十を過ぎた今、俺は二十も離れた恭子とつきあっている。下手をすれば親子ほどの開きがあると言えなくもない。あの恵比寿の夜以来もう何度も肌を重ねて来た。しかしお互い独身なのに普通と違うつき合い方をしていた。それは土日の休日は龍一の娘の少年野球チームへ行ったり溜まった家事をこなしたりで、恭子とは一度も休日のデートをしたことがないことだった。これについては恭子は口に出さないまでも少し淋しい思いをしていることは明白だった。社内でも1、2を競うほどの奇麗な子で性格も良く、当然男性社員からも人気があり、龍一が恭子本人から聞いただけでも、数人からのかなり熱いアプローチがあったらしい。同じ設計部の信介もその一人だった。それでも龍一は不思議と嫉妬心は起きなかった。それはすでに恭子は自分のものになっているという優越感からの余裕も確かにあったのだが、恭子のことを独占したいと思うことはないのだった。恭子のような若い女の子はこれからもっと人生を楽しみ笑い、時に苦しみや悲しみもたくさん経験して、もっといい女になるべきだと思うのだった。それには龍一が男のエゴで恭子の交際範囲や行動半径を制限すべきではないと思っていた。もちろん隠れて別の男と関係を持ったならば人並みに激高はするだろうし、悲しみの感情が全身を覆うだろうとは思うのだが。

龍一には恭子との再婚の考えはなかった。それなのにこのまま付き合いを続けることに後ろ髪を引かれる思いがあったのだが、それよりも再婚に対して後ろ向きな一番の理由は、希伊の幻影をいまだに心の中で灯しているからだった。無風状態の暗闇で一本の細い蝋燭が火を灯しているように。もし他人に女々しいと言われようがこればかりは手放すつもりはなかった。あの時代の記憶の写真はどんなに色褪せても処分する気はない。恭子と食事をしていても頭のどこかで目の前の女が希伊だったならと、身勝手な思いに遠くを見る目になることがあった。そんな時恭子は訝(いぶか)し気に表情を曇らせるのだが、あえて龍一に詰問するようなことはなかった。恭子なりに何か感じるところがあるのかもしれない。
そんな過去の女の記憶を捨てきれず、若い子と再婚する意志もないのにつき合うことにある種の罪悪感を覚える龍一だった。付き合いを重ねれば重ねるほど、ちょっとずつ恭子の何かを傷つけてしまっているのではと思うのだった。


宙に浮かんだ風船に横から針を刺すように、龍一のそんな物思いを打ち破ったのは、間もなく羽田に到着するというCAの機内アナウンスだった。
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2016年9月4日日曜日

振り向けば八月の夏

あじさいリーグVS小杉陣屋一丁目子ども会戦である。試合前には監督コーチたちがそれぞれごFベンチまで挨拶に来ていただいた。とても紳士的な印象であった。Ohmoriスコアラー部長によると中原区でも今年は強豪なのだそうだ。確かにシートノックを見ると、内野守備陣に穴はなさそうだ。
先発は小杉.....ん?スコアブック漢字が読めない....長身の○○くん、FはKaito。


両投手の力投でゼロ行進、しかし3回裏ついにつかまり2点先制されるF。

今日も中学生のOBたちが続々遊びに来る。来週は試験だっちゅうに、とんと能天気なヤツらである。OBらとワンコのHana。うちのワンコRinは人見知りするタイプなのでたぶんこうはいくまい。

4回にFが2点を返すもその裏小杉Jは大量5得点し7:2。

最終回表にFは3得点し肉薄(?)するも結果、7:5で小杉Jの勝ち。

気がつけばもう九月なんであった。
八月の夏はうしろを振り向いて初めて背後にあったことに気づく。
ここ数年そうだけれど、6年連合、5年連合、オレンジボール、新人戦と、チームが今日を境に少しずつ緩やかに解体されバラバラになる季節でもある。前向きに捉えればこれも進化の過程の橋を渡ることと解釈したい。
夏の正面から対峙するような太陽とはあきらかに違う、柔らかなちょっと斜(はす)に構えた九月の日差しが、日焼けした子どもらの顔を照らす。心なしか夕方の影も夏の時のそれよりもいくぶん長めに伸びてきたようだった。

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2016年9月1日木曜日

建築の神は細部に宿る

「はあ〜、なんだかなあ〜」
今サッカーを観終わってため息を吐き出す筆者。UAEに前回に続き圧倒的優位に立ったゲーム展開にもかかわらず2−1の負け。あからさまな時間稼ぎでピッチに倒れ込むUAEの選手がいると、筆者はTV画面から引っ張り出して、カメムシとゴキブリとタガメを口に放り込んでTV画面に戻してやりたくなる。最終予選初戦を落とすとW杯本戦には行けないというデータがあるんだそうな。しかし、ならば、その忌まわしい呪縛を今大会のこのチームが破壊してやれば良いではないかっつうの。本田が言っていたが、あとの全部を勝つ気持ちで前向きに頑張って欲しいぜよ。本戦には絶対行くぞ。こんなところで下を向いている場合じゃない。それにしても「中東の笛」とまでは思わないがしかし「中東の笛」だと糾弾されてもおかしくないほどの、限りなく「中東の笛」に近い「中東の笛」ではあった。

さてまさかこんなに帯状疱疹が長引くとは思わなかった。見た目は赤いぽちぽちが残っているものの、ほぼ治ってきている。しかし右胸の奥のほうが灰色の曇り空のようにどんよりとしており、納屋の隅に落ちていた10年前の錆びたボルトを飲み込んだような痛みがまだ残っているんであった。
とは言え、昨日所用があってついでに市ヶ谷へ行ってきた時の写真ブログをアップしちゃう。
その前に先日の台風一過の空に掛かった虹の画像。右胸の奥のほうにある灰色の曇り空のようなどんよりとした空に出現し、ほんの2,3分ほどで消えた。

市ヶ谷にあるDNP(国内超大手印刷会社)の一階フロアを改装する仕事があった。既存スペースの床と天井を残してあとの什器などを新規にリニュアル。但し筆者は黒子で詳細図を作成する立場。0コンマ何ミリ単位で各種図面をCADで描く。十数枚の図面作成とその修正で延べ数ヶ月間。デザインは別途設計事務所の仕事。物販と書店とカフェなどのワークショップ複合施設。※撮影は商用目的ではないのでスタッフに承諾をもらってiPhoneで撮影。

カフェカウンターのバックにあった壁面。この部分は既存のままである。

このちょっとピカピカ光る金属質のグレイの壁にはディスプレイのためのBOXがあるんであるが、その周りの詳細を見てほしい。

「活版印刷」の文字群なんである。
昔の新聞などはこれで組版して元になる原稿を作り製版、インクをつけて輪転機を回し印刷していた。やがて時代は写真植字(写植)になり、更にパソコンとデジタルフォントが登場しDTPとなって今やデジタル印刷が当たり前になった。
なんかこういうアナログな時代の遺産を見ると嬉しくなっちゃうのだった。
「希み」の「希」、「希望」の「希」、「希伊」の「希」があったのでアップで撮影。
「建築の神は細部に宿る」と言ったのはフランク・ロイド・ライトと共に有名なミース・ファンデル・ローエの言葉。

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2016年8月29日月曜日

小説「月に雨降る」21

「と、いうわけで本日のプレゼンは以上になります」
龍一と信介が交互に設計内容を説明し、最後に孝雄が引き取り言った。これに対してクライアントの営業本部長が返した。
「鈴木部長、前回プランと今回のプランでの相違点をポイントだけに絞って簡潔に説明してもらうことは可能でしょうか?」
「ええ、もちろんです。二人の説明は若干分かりにくい専門用語が多かったですかね」
鹿児島的な言い方で営業部長が言った。
「ですです」
鹿児島天文館近くに居酒屋とカフェとアクセサリーショップの複合店舗を新築するため、更地にビルから建てようとする計画があり、建築は地元の大手建設会社で施工、内装設計は東京T&Dの孝雄たちの会社がデザインコンペを経て受注したのだった。クライアントは地元では「不動産王」と呼ばれる飲食店舗やネイルサロン、美容室、物販店舗など、本業の不動産業以外にもいくつも店舗展開している会社だった。オーナーは孝雄とほぼ同年代の二代目社長、高須磨(たかすま)という男だった。高須磨はこの業界のやり手経営者にしては珍しくビジネスでは非常に聡明で時には辛辣な意見や指摘を発言する反面、それ以上に人間的な付き合いを大切にし、何よりも楽しく笑うことが大好きな男で、打合中に下ネタやオヤジギャグで座を湧かしたりするのも得意だった。社員にノルマを課したりトップダウンで雷を落とし従業員を震え上がらせたりするような、いかにもありがちな経営者とは対極にある経営者で、幹部や社員たちからも慕われ信頼されていた。それゆえに経営者と従業員との距離が近く、周囲をイエスマンばかりで囲われた裸の王様的な社長がいる企業のように動脈硬化が起きることもなく、社員が高須磨に向かって素直に進言出来る社風のために血流サラサラの風通しの良い会社であった。
T&Dとはすでに東京と鹿児島で7回ほど打合を重ねてきており、そのたびに夜は酒席を設けて龍一たちをもてなしてくれるほど昵懇(じっこん)の仲になっていた。龍一はもちろんのこと孝雄も信介もこの人間味のある飾らない高須磨という男のいちファンになっていた。この社長の夢を叶えてあげたいと損得抜きに思うまでになった。
プレゼン後高須磨が言った。
「神島さん。この平面図の左側は個室で構成されとるよねえ。右側はオープンな客席になっちょるけど、いっそ全部個室にしたらどげんじゃろか?」
「東京には100%個室だけで構成されてる居酒屋もありそれなりに人気がありますが、ここの場合客席数と減価償却とを鑑みたときに、客単価と回転率から想定してオープンのボックス席も絶対欲しいところです。むしろこのスペースがあるからこそ個室の価値感がアップします。個室ばかりですと客単価の見直しをしなきゃいけないですよ」
なるほどと得心顔の高須磨の表情を見て龍一はニヤリとしてとどめを刺した。
「社長。個室にはあまり固執しないほうが良いかと」
一瞬座が凍りついたかと思ったがそれは龍一の高尚な漢字のダジャレのために、一同理解するのに若干の時間を要したためだった。信介が助け舟を出すように言った。
「うっわ出ましたっ、神島さんのダジャレ」
総勢18名ほどの会議室は一斉に和み、高須磨も破顔一笑、会議室の外へ向かって大声で叫んだ。
「お~い、山田くん。神島さんに座布団三枚持って来て」

予定では午後一からの打合でその日の夜の便で日帰りするという強行軍だったが、飛行機が嵐で大幅に遅れたため夕方からの開始となり、当然鹿児島で一泊することになった。高須磨は今日は予定があると言って運転手付きの深緑色のジャガーで夜の街へ去って行った。龍一たち三人は天文館の繁華街をぶらつきながら、適当な居酒屋で今後の打合を兼ねて遅い晩飯をとった。仕事の話は最初の30分だけであとは男同士の四方山話で盛り上がった。途中龍一の電話に恭子から着信があり、あとでかけ直そうと無視していたら5分後にまたかかってきた。仕方なく出ることにした。
「あっ、もしもし神島です。お久しぶりですね、村井さん」
と言って村井の名前をダシに使って孝雄たちの目をごまかし、指を耳の穴に当てながらいかにも喧噪から逃れる風を装い、席をはずし店の外へ出た。急遽鹿児島で一泊することになったのは孝雄からの報告で知っていた恭子だったが、直接龍一からは連絡は入れてなかった。息子と娘のグループLINEには簡単に事情を説明し、今晩は帰れないことを伝えてあったのだが。
「恭子ごめん、連絡出来なくって」
「もう、心配したんだからね。嵐で大変なことになったって聞いてJALに問い合わせちゃったわよ。それから明日朝の帰りの便を手配したり、孝雄さんに頼まれてパソコンで今晩のホテルを三人分予約したり、それとは逆に渋谷のあの店キャンセルしたり」
「あっ、渋谷か」
「えっ、忘れてたの」
「やっ、忘れちゃいないけどさ」
「うっ、マジですかリュウさん」
龍一と恭子が男と女の関係になって龍一は恭子と呼ぶようになり、恭子もタメぐちで話すようになって龍一のことをリュウさんと呼ぶようになっていた。会社では今までどおり何食わぬ顔で上司と部下で通した。互いに独身なので世を忍ぶことはないのだが、龍一の家庭の事情や恭子との年の差を考えれば、やはり社内では内密にしておきたかった。恭子はむしろオープンにしたかったが、龍一が絶対秘密にしておこうと約束させたのだった。それに二人だけの秘密を共有することは、どこか淫靡な愉しみもあった。その点は恭子も同じだった。
「渋谷のあそこ、今日しか予約取れなかったのに。まあ、東京に戻れなくなったのはリュウさんのせいじゃないけどさ」
「ごめん、渋谷はまた今度。約束するから」
そこは東急電鉄系ホテルの夜景が奇麗な高層階にあるバーで、週に二回ほど著名なジャズバンドが出演し生演奏と酒が楽しめる大人の穴場スポットだった。龍一はジャズにはさほど興味がなかったが恭子が是非行きたいというので、予定どうりだったならこの日の夜は羽田に着いたらまっすぐ渋谷へ向かい、恭子と待ち合わせを約束していたのだった。職業柄インテリアデザインにも興味があったので楽しみにしていたのだった。
「今どこなの」
と言う恭子に対して龍一は答えた。
「うん、孝雄さんと月地と三人で飯食ってる、居酒屋で」
「月地さんが一緒ならこのあとはアレね」
「いやあ、どうだろアイツ、今日は疲れているみたいだしなあ」
恭子の言うアレとはキャバクラのことだった。月地はガールフレンドがいながら無類の女好きで、また逆にルックスも良いし頭も切れるタイプだったので女たちからもかなりモテた。店に戻り新しいビールを頼もうとすると、それを制して信介がにっこにこしながら言った。
「神島さん、ここ出て次、アレ行きますよ」
男数人で泊まりの地方出張ともなれば、勢いそういった店に繰り出すのは世の常だった。世間の女性が目くじらを立てるほど、男たちにはそれほどの罪悪感がない。昔のスナックが現代ではキャバクラになったくらいの軽いノリだった。龍一は営業職などに比べて出張などそう多くはないが、飲み屋の女の子と話していてその地方の方言やイントネーションで話す子が好きだった。
繁華街を歩きながら一軒の店へ入り、三人ともそのままぐでぐでになるまで飲み、恭子が取ってくれた天文館近くのビジネスホテルにたどり着いたのは、午前三時をとうに回っていた。
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