2016年11月10日木曜日

小説「月に雨降る」30

まだ客のいないバーで三人が親密に談笑していると、店内に流れていたBGMがやっとエルトン・ジョンから、ビートルズに変わった。しばらくして流れてきたのは、アルバム「ラバーソウル」に収録されているバージョンのジョン・レノンが歌った「ノルウェイの森」だった。真壁と恭子が熱心に何かの話題に夢中になっているのを尻目に、龍一は少しずつ「ノルウェイの森」の世界に深海探索機みたいにゆっくり沈んで行った。刹那的なひと晩の蜜月のあと、翌朝女の子は部屋を出て行った、というような掴み所のないもやもやした感触の残る、けれどどういうわけか妙に脳裏に焼き付けられるシンプルなスローバラードだった。龍一は高校時代にCDが擦り切れるほど聴いたものだった。人によって解釈は違うのだろうが、龍一にとっては近くに迫った世界の終末を、遠雷を聞くような感覚で聴かせるアンニュイで不思議なメロディーと詩だった。更に昔から傾倒している村上春樹の小説「ノルウェイの森」のことにも思いが及び、夜の海に浮かぶ光るクラゲのように心はゆらゆらと泳いで行った。
手にしたグラスの角の丸くなった氷をゆっくり回していると、次第に希伊のことが頭に浮かんでは消えた。日曜の雨が降る朝に彼女は姿を消した。あの時の記憶だけはいまだに鮮明に龍一の胸に刻まれている。およそ15年も経てば記憶は風化し、そこかしこに経年劣化の錆が浮いているものだが、希伊のことはどうしても忘れられなかった。
相変わらず真壁と恭子は楽し気に何かの話に静かに盛り上がっていた。珍しく真壁が笑っている。恭子も楽しそうだった。それをいいことに龍一はまた過去の記憶の坂道をゆっくりと下って行った。希伊と過ごした記憶の坂道の途中にあったのは、一緒に暮らすようになって間もなくふたりで金沢へ旅行したことだった。記憶は二人が二十二、三歳の頃まで遡っていく。

「ねえ、リュウ。突然なのは十分分かってるけどさ、明日金沢に遊びに行かない?」
「えっ、なんだよ突然。金沢?」
「そう、金沢」
「なんでまた金沢なんだよ」
「なんか知らないけど金沢なんだよ」
「俺も一度行ってみたいと思っていた所のひとつが金沢だけどさ」
「わたしはもう一度行ってみたいところが金沢なの」
「へえ、以前に一度行ったことがあるんだ、希伊は」
「う~ん。行ったと言うか、いた、と言うべきか。わたしにもよく分からないけど、とにかく金沢に行ってみたいの」
その頃はまだ希伊の口から自身の出自のことはもちろん聞かされていなかったから、金沢と言われてもピンと来なかったのだった。
「まあ、なんかよく分からないけど、明日から土日休みだし、資金も多少ならあるし、このところ二人でどこにも遊びに行ってないからな。しかし急だなあ。明日神宮へプロ野球観に行こうくらいの軽いノリで簡単に言ってくれるよねえ。さてどうしたものかなあ」
と逡巡していると、希伊は龍一の言葉を最後まで聞かずに、もうJRの時刻表を捜しに本棚に向かっていた。人は肯定的要素がいくつも存在し、反して否定的要素が皆無の場合はそれを実行に移す生き物だ。あとは実行力があるかないかだけの差だ。こんな時は龍一よりも希伊のほうが圧倒的に行動力があった。にこにこしながら時刻表と格闘する希伊がまた可愛いと思う龍一だった。


翌朝の土曜は春爛漫のうららかな日和だった。東京駅からJRで富山を経由して石川県金沢市に着いた。まだ北陸新幹線のなかった時代だ。駅を出ると近くのレストランで昼食をとり、バスで金沢城公園へ向かった。すでに天守閣はなく中央を南北に縦断する道をゆっくり希伊と歩いた。公園を抜けて通りを渡ると兼六園だ。龍一は昔から日本庭園が好きだった。兼六園は初冬の頃の雪囲いが有名だがこの時季の陽春の散歩も格別だった。希伊と取りとめもない話をしながらのんびり庭園を散歩するのは、この上もない極上の幸せに思えた。それを希伊に伝えると彼女もまたにっこりとして、無言で強く腕を絡ませてきたのだった。
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