2011年8月21日日曜日

魔物の囁き、天使の微笑み

昔からある事象なのに、ここ近年になってこれ見よがしに命名されたものがある。例えば「花粉症」。
あまり詳しくないくせに適当に書くのだから「キミ、そりゃ違うよ」などというツッコミはご勘弁願いたい。太古の昔、たとえば縄文時代から杉の木はワシワシ身を震わせて、その花粉は盛大に宙を舞っていたはずで、なのに縄文人が縄文式土器をこねくりながらクシャミを連発していたという記録はない。たぶん。江戸時代しかり、昭和もそうだ。近年平成になって現代病とでも言えるのだろうか、現代人の体質変化に伴い目ショボの鼻ズル的症状を「花粉症」と名付けたのであろうと推察。いまだに昭和人の筆者の春は安穏と過ごせており、幸いにも平成人のご苦労は知らぬまま今日に至っている。

もうひとつ。「甲子園の魔物」。
好きなくせにあまり詳しくないのだから「オメエ、そりゃ違(ちげ)ぇ〜よ」などというツッコミはご容赦願いたい。高校野球の甲子園大会がいつ頃から始まったのかは知らない。縄文人が土器を製作するかたわら、野球に興じていたという文献はいまだ発見に至ってないので、当時はまだ甲子園すらなかっただろうと想像するに難(かた)くない。おそらく。それでも甲子園の歴史は古いはずだ。そしていつの頃からか高校球児の聖地となり、憧れの大舞台となる。「甲子園には魔物が棲む」という素敵な命名はNHKのアナウンサーなのか朝日新聞の記者なのかは知る由もないが、いつしか巷間(こうかん)まことしやかに囁かれるようになった。

この魔物はゲームの終盤、ことに9回などにふっと、グランドに舞い降りる。残念ながら筆者はヤツの姿を肉眼で目撃したわけではないのであるからして、羽が生えていて「舞い降りる」ことが可能かどうかは定かではないけれど、絶対宙を飛べるに違いないのだ。魔物はほとんどの場合守備についている選手の背後にワッサワッサと降り立ちそっと肩に手を触れ、何事かを囁くだけ。その瞬間、投手なら指先の微妙な変化でいつもなら鋭く曲がるスライダーが、その時だけ甘くど真ん中に入ったりする。野手ならどうということもない凡ゴロをトンネルしたり、一旦グラブに納まったはずの凡フライを土手に当てて落球したり...。そんなひとつのミスから試合が急展開してあらぬ方向へ球児たちを連れていってしまう。ミスだけではない。土のグランドのイレギュラーバウンドだったり。起死回生の一発を打たれた投手にとって、球場を揺るがす観衆の大声援は、自分一人に襲いかかる闇夜の悪魔の咆哮に聞こえたりもするはずだ。

魔物のささやきか、天使の微笑みか。日大三高は後者だったのだろう。特に爆発的な打力を持つチームはなんだかんだ言ってもやはり強い。決勝で青森光星の守備に魔物が降り立ったようには見えなかったけれど、残念なことに天使も微笑んではくれなかったようだ。天使と魔物は共存しない。天使は魔物がいない時だけパタパタやって来る。しかも一人しかいないわけで。東北青森の球児たちは胸を張ってふる里へ凱旋してほしいと思う。おそらくキミたちが思っている以上に、私たちは感動をもらったのだから。

ところで天使に羽が生えていることは誰でも知っている。日本の狭い大阪に棲んでいる魔物と違い、天使に関しては古今東西、世界中にその文献が山のようにあるからだ。天使にとっては羽と頭の輪っかを取ったら、ただの幼稚園児に見えてしまうくらい大事なアイテムなんである。
このように天使の羽の存在は確固たる事実だが、果たして縄文時代にも天使は存在したかどうかを示す有力な物証は得られていない。縄文人が縄文式土器で天使と酒を酌み交わしたという記録が残っていないからではない。なぜならば記録や古文書の存在以前に「縄文人が縄文式土器で天使と酒を酌み交わした」かどうかについての研究をしようとする、気概のある学者が我が国にはいないからである。

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