その日は前日の天気予報が的中し、朝目覚めると全く車の通行音が聞こえず、窓ガラスは真っ白に曇っていた。窓を開けるとそこは一面の銀世界。これからもっと降り積もるとの予報。よりによってこんな日に....。
今日はTakahashiさんとの最後のお別れの日だった。
14歳も年下の友人の急逝。本当の親友の方たちからしてみれば、付き合いも浅くメールでの交友が主だった私なぞは一蹴されて当然だけれど、しかし私にとっては間違いなく友人であった。「Tさん是非呑みましょう。お声をかけてくれたら鷺沼でもどこでも駆けつけますから」いいですねえ、こちらこそ是非....。その約束を私は果たすことができなかった。あんなに慕っていただいたのに、申し訳ない気持ちで今は胸が張り裂けそうになる。
大勢の参会者が葬儀場を埋め尽くしていた。某大手食品メーカー勤務だった氏の会社からの多くの参列者に混じり、宮崎台バーズの子どもたちがユニフォームに喪章をつけてあらわれた。Ogawa監督はじめ29,28コーチも正装であるユニフォーム姿で。そのほか大勢の父兄も駆けつけた。
私は会場の中央後方に立ちTakahashiさんの遺影と正面から対峙することになった。粛々とご焼香の列が進む。私は列のうしろからずっとYuutaくんと弟の姿を見ていた。弟は時おりハンカチを目にもっていっていた。Yuuta君は背筋を伸ばし焼香客のお辞儀に、気丈にもちゃんと目をみて頭を下げていた。お父さんそっくりの風貌に一瞬彼がそこに座っているかと思った。
会社の上司と大学時代からの親友である先輩からの弔辞。まさにTakahashiさんのお人柄を如実に物語るものだった。仕事が出来て人望が厚く部下に慕われて。まさにその通りの人だったのだろうと今更ながら思う。
故人との最後の対面の儀。棺の中に白い花を手向ける。
自分の番がやってきた。足元には「MIYAMAE2013」の文字があった。連合チーム宮前クラブのブルーのTシャツだった。迷わずそこに花を一輪添えた。次にTakahashiさんの温和な顔を見た瞬間にゆるりと視界が狭まり手を合わせることしかできなかった。
喪主であるお母様が挨拶。たいへん気丈に朗々と語っておられた。
そこで初めて知った。亡くなる一週間前に6年前にガンで亡くされた奥様の7回忌を終えたばかりだったのだそうだ。こんなことってあるのだろうか。子どもたちには母の法事を終えたその一週間後に今度は父を.....。やりきれなさに絶句した。
奥さんにひと目惚れしたTakahashiさんは、何度もふられてそれでも何度もプロポーズして、大恋愛の末にゴールインしたとのこと。それはそれは仲睦まじい夫婦だったそうだ。
「Takahashiさん、なかなかやるじゃんか!」そんな話や音楽や映画や本の話も酒を呑んであなたから聞きたかった。
宮崎台バーズ代表Kobayashiさんはじめ、スタッフ父兄たちもみなハンカチで目頭をおさえていた。棺が最後のお別れで目の前をゆっくり進んでゆく。私は溢れる涙をどうすることもなく成すがままにしていた。
バーズの子どもたちが整列し、主将の号令が会場に響き渡る。
「高橋コーチに礼!」....「ありがとうございました!」
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告別式の模様を個人ブログなんかに書き綴っては不遜の極みと思っていた。
しかし、どうしてもTakahashiさんの追悼の意味を込めて、そのお人柄をせめて私小説ふうに変えて伝えたかった。
休筆することが本当にTakahashiさんの意に沿うことなのだろうか。今までの書簡のやりとりや人柄を想った時にあの人なら天から絶対こう言うだろう。
「Teshimaさんそんな「晴耕雨読」書かないなんて絶対やめて下さい。今は恋女房とこっちで再会できて、これからは天国からカミさんと一緒に「晴耕雨読」を見るのを楽しみにしてますから。いつものTeshimaワールド全開でお願いします」...と。
私の穿った見方かもしれないけれど、彼に背中を押されたような気がして今日ブログ再開を決意。ブログを休筆宣言し2,3週間くらい喪に服すつもりでいたが、私自身の胸の中でひとつの区切りをつけたかった。これからはいつもの文面で書くことが逆に氏の意に沿うような気がして。
ちょっとずつ日常に戻ることにしたい。
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