兼六園を出るとさすがに疲れた。香林坊方面へ戻る途中で見かけた、赤いトタン屋根の民家を改造したようなオープンカフェに入ろうと思った。希伊を見ると彼女は一瞬立ち止まり、じっとその店を凝視していたような気がした。何かこの店に感じ入るものがあったかのように。その時の希伊はどこか遠くの記憶を辿るような表情だった。声を掛けようと思った龍一だったが、彼女の横顔の硬さがそれを無言で拒否していた。
明日は犀川大橋を渡って忍者寺で有名な妙立寺まで足を伸ばす予定だった。昨日まで熱いドリップコーヒーを飲んでいたが、二人とも今年初のアイスコーヒーを注文した。
「これはさ、俺のこだわりなんだけど知ってた?」
「ん、何が?」
龍一はグラスにまずシロップを入れてそれをストローで上下にかき混ぜた。そののちミルクをゆっくり蚊取り線香状に回しながら静かに落とす。それからおもむろにストローで底の部分をひと口飲んでみる。次のひと口はグラスの上面に渦巻くミルクとコーヒー本体の融合する部分を吸い上げる。
「この手順をひとつでも間違ったらアウトなんだ。最後の上面を啜った時にそのコーヒーの真価が判明するんだよ」
「何それ?」
「ミルクの甘みとコーヒーの苦みが融合するその絶妙な領域を味わうのが俺の流儀なんだ。その場所は河口付近で海水と淡水が混じり合うみたいな所なんだよ」
「何それ?」
「まあ、女には分からないかな。いわゆる男のこだわりってやつか」
「何それ?面倒くさっ。胃袋に入っちゃえば一緒じゃん」
希伊はニコニコしながら続けた。
「男のこだわりって言うか、それはリュウ個人の思い入れじゃないの」
「うん。そうか、そうかもな、確かに」
毎日同じ屋根の下に暮らす男女でも、時にこういった相手の細かいことや微妙な性格の違いなどには、思いのほか気がつかないものだということに気がついた。『気がつかないことに気がついた』というフレーズに思わず龍一はニンマリした。
「何をニヤニヤしてるの。変な人」
希伊にこのフレーズの可笑しさを伝えると希伊も相好(そうごう)を崩して、ころころと笑った。
龍一は思った。希伊にはどこか不思議な領域を持っていて、それは龍一と希伊の交わる最大公約数を越えた部分に、何人(なんぴと)も立ち入ることの出来ないエリアがある。何か自分には推し量ることの出来ない秘密めいた穴蔵のような場所だ。何でも言いあえる仲だったが、希伊は俺に言えない秘密を隠し持っているような気がした。それは悪意のある嘘とかではなく、言いたくとも言えない種類のように思えた。
こののち数年後それが判明するのは、雨が次第に強くなってきたあの土曜の晩の希伊の独白だったが、この時の龍一には知るすべもなかった。
「ねえリュウ、なに物思いにふけってるの」
「いや、なんでもない。宇宙の起源にまつわる混沌としたカオスの中にいる自分に思いを馳せていただけだよ」
「あら、宇宙に行っちゃってたの。そりゃ大変だ。酸素ボンベの残量は大丈夫?でもそんなことよりさ」
カフェの外はいつの間に夕まぐれの微妙な薄い闇が足元に忍び寄って来ていた。いたずらっぽい目をして希伊は続けた。
「もうホテルへ行こうよお。疲れたし、お風呂に入ってごはん食べて、それから」
「それから?」
希伊の瞳に浮かんだ熱を帯びた色を見て、龍一の体の芯も熱く重くなるのを感じた。
恵比寿のバーで龍一はそんな昔の想い出にひたりながら、希伊はいったい今どうしているのだろうと思った。そんなことは今まで何度も想像してきたが、四十を過ぎてその頻度と深度は増すばかりだった。今でも髪の毛はショートカットなのだろうか。どんな化粧をしているのだろうか。なんの仕事をしているのか、或いはしていないのか。暮らしぶりはどうなのだろうか。そして最後に思うのはいつも決まっていた。
「結婚しているのだろうか」
常識的にはすでに結婚して子どもがいて当然だった。頭では分かっているつもりだった。どうか幸せな家庭を築いていて元気に暮らしていて欲しいと願う、心から。しかし、もし、まだひとり身だったとしたら。そう考えるといつもその先の思考にまで及ばず、深くほの暗い沼のほとりで立ち往生してしまう龍一だった。
「おい、神島。どうした、しっかりしろ、傷は浅いぞ」
真壁の言葉でふと我に返った。ここは金沢ではなく恵比寿だ。どうやら希伊との過去の時間にタイムスリップしていたらしい。なぜか最近希伊への執着心がいっそう強くなってきたようだ。自分では如何ともしがたい心のうねり、気持ちの転変だった。最近の俺はどうしたのだろう。このままで良いのかと自問自答してみる。
「すまん真壁。俺の怪我は致命傷のようだ。俺を見捨てておまえは先に後方部隊へ戻れ」
真壁も負けずに返して来た。
「何を言う貴様。俺はおまえを背中に背負ってでも日本へ帰るぞ」
「貴様こそ何を言う、敵はすぐそこだ、共倒れになるぞ。故郷(くに)に帰ったら女房によろしく伝えてくれ。俺はもう逝く、ううっ」
龍一が喉に左手を当てて、右手を天に向かって突き出すと、やっとこの茶番のオチに笑いが起きた。気がつくと店には二組の客もいて一緒に笑ってくれた。隣の恭子に目線を転じると、顔はからからと笑いながらも、瞳の奥には不安と淋しさの入り混じったものが滲んでいた。龍一の最近頻繁になった、独り殻に閉じこもったようなもの思いに、言い知れぬ淋しさと微かな猜疑心を感じる恭子だった。
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