店を出たあとよほど恵比寿に戻って真壁の店に行こうかと考えたが、今日はやめておこうと思い、まっすぐ帰宅することにした。それでも恭子のことを思うと胸に刺さった棘は簡単に取れそうもなく、もっと強い酒が飲みたかった。酒で胸の痛みが沈静化するはずもないことは分かっていたが、地元の駅前のスーパーがまだ開いていたので寄ってみた。いつも購入する国産の安ウィスキーには食指が動かず、思い切ってワイルドターキーを買い物かごへ放り込んだ。自宅は駅から歩いて10分ほどの中古分譲マンションの上層階にあった。ローンの残高はまだ気が遠くなるほどあった。希伊と過ごした中野坂上のアパートはあれからほどなくして引き払い、田園都市線の桜新町へ引っ越し結婚後もそこで暮らしていたが、子どもができたのを機に同じ路線のもう少し郊外のここへ越して来たのだった。あれ以来捨て猫だったサチコも神島家の家族としてずっと龍一とともに過ごしてきた。龍一は帰宅するとまず最初にサチコの喉を撫でてぐるぐる鳴らすのが日課となっていた。時には抱き上げて頰ずりしたり、または足の肉球の匂いをかいでみたり、一番にサチコに接するのだった。希伊の分身と思い飼い始めたサチコだったが、子猫だった彼女も今は老猫となり最近の様子をみると、近い将来やってくるであろう、生の終焉の予感に胸が締めつけられる思いだった。
そんなサチコが玄関口で龍一を出迎えた。「ただいま、サチコ」と言って右手で喉をさすり同時に左手で頭を撫でると、目を細め顎を突き出してすぐにぐるぐると喉を鳴らしはじめる。しばらくして頭をぽんぽんしてやるとゆっくり娘のベッドへ戻って行った。娘の部屋はサチコが夜中でも自由に出入り出来るように扉は薄く開けてあるのだが、灯は消えて暗かった。娘はもう寝ているようだ。息子の部屋のドアのすき間からは薄明かりが漏れているが、間違いなく勉強ではなく彼女とLINEをしているかスマホゲームをしてるはずだ。自分も中学時代は3年の部活が終わるまではまともな受験勉強などした記憶はなかった。ましてやまだ2年のあいつは今が一番楽しい時期なのかもしれない。
軽くシャワーで汗を流したあと冷蔵庫から350mlのビールを取り出し一気に飲んだ。まだ真夏のように汗をかくような季節ではなかったが、炭酸が喉を刺激しながら下降し腑に落ちる感覚が心地よかった。すぐに空にすると先ほど購入したターキーの13年物をスーパーの袋から取り出す。ロックグラスに氷を入れ、とぷとぷとグラス半分まで注いだ。ターキー独特の香りが龍一の鼻腔をつく。グラスを目の高さまで持ち上げてその奥行きを見てみる。リビングの照明の光を受けて、琥珀の液体はゆらゆらと氷のすき間を漂っていた。宇宙が生まれる前のカオスの渦巻きのようだ。或いは神様がこれからどうやって宇宙を形成したものか迷っているみたいに。龍一はそれを見ているうちに、つい数時間前の恭子とのことに思いが及んだ。心臓がきゅっと音を立てて締め上げられたような気がした。食卓に頭をつけて目を閉じた。しばらくそうしていたが、やっと顔を上げてひと口喉に流し込むと今度は希伊の映像が浮かんできた。あの日の朝の記憶が蘇ってきた。龍一の頭の中でもうすでに何度この映像がリプレイされたことだろうか。希伊は書き置きを残して雨の朝に忽然(こつぜん)と消えてしまった。ふとあの書き置きのことが気になった。確か今でもどこかに保管していたはずだ。うしろから背中を針で突つかれたように立上がり、収納家具の一番下の抽斗(ひきだし)をあけ、その奥からモンブランの万年筆の空箱を取り出す。
「あった」
龍一はその17年前にしまい込んだ黄変したメモ用紙を取り出し、ゆっくりと丁寧に広げてみた。博物館の学芸員が古文書のページをめくるみたいに。そこには懐かしい希伊の筆跡が踊っていた。
『リュウ、ほんとうにごめんね。いつかまたその日がきたら逢いたいよ』
じっと見ているとちいさなメモ用紙の表面に僅かな窪みを発見した。複雑にうねるようなミミズ腫れのような窪みだった。あの時も何か違和感を感じたのを想い出した。光にかざしてみる。はっと閃いた龍一は、目の前の抽斗から仕事で使う2Bの鉛筆とカッターナイフを取り出した。鉛筆の先を何度か削り芯だけを長く露出させる。今度はカッターの刃を立てて芯の部分だけを細かく削り粉末状にフローリングの床に落としていった。中指でその黒い粉末をすくい取るとメモ用紙に軽くこすりつけていく。全体が鉛筆の粉で黒く染まったところで余分な粉をはたいて落とした。手にした紙には希伊が書いた黒い文字とは別の文字が、うっすらと反転して白く浮かんでいた。ジェイムズ・ボンドだったかケーリー・グラントだったかは忘れたが、若い頃昔のサスペンス映画で見た手法だった。メモ帳に強い筆跡で一度書いてから思い直し破り捨て、2枚目にまた文字を書く。その際に2枚目には1枚目に書いた筆圧が微かに窪みとして残されているのだった。
龍一はその紙面を凝視して照明の光をいろんな角度から当ててみた。解読を試みた。おそらく希伊は1枚目を破棄して2枚目だけを龍一に残したに違いなかった。目を細めて見てみるとそこには希伊の筆跡がおぼろに浮かんでいた。
『私は金沢に行きます。いつかまたリュウと逢える日を待ってます。こんな意気地(いくじ)なしの私でごめんなさい』
龍一はじっとその字面を見つめたあと、たたみ直して財布にしまい込んだ。うす暗いリビングで龍一ははっきりと声に出して言った。
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