2017年7月11日火曜日

小説「月に雨降る」42

2017年の夏、その日の土曜は朝から雨模様だった。
淡いグレーと濃い灰色の雲たちが、互いにその領域を固守しようとせめぎ合っているような空だった。わずかに濃いほうの雲の軍勢が優位に見えた。
家を出る前にiPhoneの電話帳から『城崎かな江』を探し出し番号をタップした。かな江は龍一が希伊を探しに実家のある自由が丘へ行った時に、親身になって応対してくれた家政婦だった。育ての母親と言っても過言ではない。その後幾度か希伊から連絡がなかったかどうかなど電話でのやり取りをしたが、いつのまにか疎遠になってしまったのだった。しかしあのとき、まるで不細工な龍のようにも見える、荒縄で作られた蛇が掛かった鳥居のある奥沢神社の階段で約束したのは、希伊の消息が分かったら必ず連絡するということだった。まだ会える保証もなかったが龍一は電話してみることにした。番号を変えていなければいいのだが。
「あらあら、久しぶりですねえ神島さん」
開口一番かな江はそう言ってきた。相変わらず明るく懐かしい声だった。まだ自分のことは忘れていなかったようで安心した。
「城崎さん、ご無沙汰してます、神島です」
かな江の話によると龍一が訊ねてきてから半年後に永山の家政婦は辞めたのだった。その後縁があって結婚し、晩婚ながら一女をもうけたのだそうだ。今は幸せに暮らしているとのことだった。龍一も簡単に今の自分の環境を話して聞かせた。ひとしきり話をしたあとかな江が言った。
「それで神島さん。お電話をいただいたということは、まさか希伊ちゃんが見つかったの」
「いえ。まだ見つかりません。今日これから見つけに行くんです、金沢へ。砂漠の中の一本の針を探しに行くようなものですけど。その前に育ての母だったかな江さんに、お知らせだけをと思って」
「あれからもう十何年も経っているというのにまあ、そうなの。それは本当にありがとうございます。私もあれ以来希伊ちゃんのことは折に触れてずっと思ってました」
電話口の向こうにはしばらく沈黙が支配した。かな江の遠くの景色を見るような姿が容易に想像出来た。龍一はまた連絡しますと言って電話を切った。

子どもたちには一泊で金沢へ出張だと言ってある。まだ小学生の娘は少年野球チームの友人大乗寺の家に泊めてもらうことになっていた。希伊との事情を知っている息子のほうは金沢と聞いてぴんときたようだ。神妙な顔をして「グッドラック、お父さん」と言って親指を立てながら片目をつぶってみせた。
「欧米か。おまえいつからアメリカ人になったんだよ」
と言って龍一は笑いながら軽く頭をたたくポーズをしてみせる。玄関に行き靴をはいているとサチコが音もなく背後に来たのがわかった。振り向くと、立ったまま口をわずかに開けたのだがいつもの「みゃあ」とは言わずに、赤い口腔を開けて見せるばかりだった。目は龍一を見て口は何度もぱくぱく開けるのだがやはり声を発することが出来なかった。声にはならなかったがまるで「必ず希伊と再会してよ」と言ってるように思えた。しばらくすると四本脚で立っていたサチコは、不意に脚から崩れるように床に横になった。それは自分の意志に反して地球の重力に逆らえずに、横にならざるを得ない行為に見えた。龍一はいよいよ近いうちにその時が来ることを悟った。純真な娘はサチコを抱きあげてもう涙目になっていた。サチコの頭を撫でたあと子どもたちにはもしもの場合を覚悟をしておくように言い置き、後ろ髪を引かれる思いで家をあとにした。

渋谷から乗り込んだ山手線内回りの車窓に広がる街並を見ると、とうとう厚く暗い灰色の雲が空全体を占領し、さらさらと雨を降らせ始めた。東京駅へ出た。改札を抜けて北陸新幹線に乗り込んだ。
龍一は車中の人となり発車のベルとともにシートに深く沈み来むと、あっという間に眠りに落ちた。
ふと目が覚めると田園風景が遠くにゆっくり移動するのが見え、視界の手前では緑の樹々がかなりの速度で龍一の背後に飛び去っていくのが見えた。ここは何県だろう。どれだけ寝ていたのかわからなかったが、空模様は東京を出た時よりも雨脚が強くなっているのがはっきり理解できた。次々と変わる光景の中で、突然大きな轟音とともに一瞬で窓の外が真っ黒の世界に様変わりした。トンネルに入ったらしい。窓ガラスは黒い鏡となり、不意に龍一の顔がそこに現れた。龍一は図らずもうろたえてしまった。あの頃に比べて歳をとった自分がそこにいた。年長の者に言わせれば四十代はまだまだ若いと言うだろうし、ひと昔前に比べればアラフォーなんて中年の部類にも入らない、まだまだ自分は若いとも思っていた。それでもやはりそれなりに重ねてきた年輪を、顔のそこかしこに認めざるを得なかった。じっと覗き込んでみると相手も龍一を見つめ返す。いったい誰だこの男は。この男は今何を目的にどこへ行こうとしているんだ。
「俺はいったい誰なんだ」

と自問する龍一だった。そしてまた突然車内が静かになり、窓の外にのどかな田園風景が現出する。相変わらず無数の雨粒が激しくガラス窓に当たっては、つつうっと、真横に軌跡を残しながら後方に去っていく。そしてまた十数秒ののちに暗いトンネルに入り、黒い窓鏡に己の虚像が浮かぶ。鏡の向こうのその男はじっと龍一を見つめ返しているのだった。
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