2017年7月20日木曜日

小説「月に雨降る」43

金沢駅に着くといつのまに小雨に変わり、空は濃度の薄い明るいグレイになっていた。龍一は近くの花屋で花を買い求め、駅前からタクシーに乗りまっすぐ野田山へ向かった。探偵の黒坂から聞いていた希伊の両親の墓があるはずだった。手がかりといえばそれしかない。今更ながら無謀な金沢行だと言わざるをえなかった。車窓から見えるその墓地は黒坂から聞いていたイメージとはほど遠く、想像以上に広大な墓苑だった。管理事務所で「氷室」姓の墓を訊いて書類を書き、区画番号を頼りに迷いながら数十分も歩いてそこにたどり着いた。黒坂の話によれば希伊は、管理事務所のおばさんに裏ぶれてしまった両親の墓をちゃんと建てると約束したらしい。龍一の目の前にあるその墓は黒御影で出来た立派な墓石だった。花を添えて手を合わせた。右側面を見ると墓を建立(こんりゅう)した者を示す「建之」(これをたつ)の表記はなかったが、希伊に違いないと思った。更に裏に回ってみると没年の表記はあったものの、月日(つきひ)は刻印されていない。しかし伊三郎と希沙子、希伊の両親の名前が二行仲良く並んでいた。二人の縦書きに彫られた名前を横に読むと確かに「希伊」となった。龍一の心は静かに波打った。
帰り際にもう一度管理事務所に寄り、この墓のことで何か知っている人はいないかと訊ねてみる。意外にも事務の一人の若い青年が応対に出てくれた。
「昔私の母がここに勤務していたんですけど、母の話によるとこの氷室家のお墓には、毎年必ず小柄で可愛らしい娘さんがやって来て、たまに母とお茶を飲む仲だったらしいです」
龍一は驚いた。彼の母とは黒坂から聞いていたあの管理のおばさんに違いない。龍一ははやる心を抑えて訊いた。
「その女性は今どこにいるか知りませんか」
「詳しいことは知りませんが、今は兼六園の近くでカフェをやっているらしいですよ」
「そのカフェの店名は知りませんか」
「さあ、そこまでは。母はもう他界してますんで。お力になれずすみません」
青年は申し訳なさそうに頭をうなだれた。そのあと小首をかしげながらふと何かを思い出したように言った。
「ああ、確か赤い三角屋根の古い建物だと聞いたことはありますが」
龍一の頭の中で昔の記憶がフラッシュバックした。希伊と同棲していた若い頃、二人で金沢に遊びに来た時に寄った兼六園近くのカフェが赤い屋根だったはずだ。龍一はアイスコーヒーを飲む時のこだわりを希伊に話したことを思い出した。そのあと宿に戻って熱く長い夜を過ごしたことも。記憶の海のカオスは逆回転してくっきりと頭に蘇ってきた。赤い三角屋根のカフェなんて、そうそう何軒もあるものではない。
「貴重なお話ありがとうございました」
管理所を出てすぐにポケットからiPhoneを抜いてMapをタップすると、自分のいる野田山のエリアが映し出された。兼六園当たりに見当をつけて画像を移動させ、最後に鳥瞰で見られる航空写真に切り替えた。一見しただけではとても見つからない。今度はSiriを呼び出して「兼六園、赤い屋根、カフェ」と彼女に話しかけてみる。表示はされるが全く別の市の店舗だった。とにかく記憶を頼りに兼六園方面へ向かってみよう。
墓苑を出た龍一はタクシーをつかまえて、兼六園近くのほとんど忘れかけたそのカフェのおおまかな場所を運転手に伝えた。赤い三角屋根だと言うことも付け加えた。白髪まじりのかなり年配の運転手はその場所を聞くと「ああ、あこね。香林坊のあたり」と言って金沢駅方向へハンドルを切った。
「えっ、あそこねって、運転手さん知ってるんですか」
「入ったことはないけど、評判の店らしいですちゃ」
「店の名前は分かりますか」
「う~ん。何度もその店の前を通ってるんだけどねえ。確かカタカナで、シェン...やっとかっと言ったかねえ」
「シェン...なんとか、ですか」
野田山から20分近く走ると記憶の片隅にあった風景が徐々に現れた。ルービックキューブが終盤にさしかかったように、記憶の断片がカシャリカシャリと噛み合っていく。香林坊の大きな通りから一本奥へ入った路面にその店があった。車を降りた龍一は店の前に立ちつぶやいた。
「そうだ。ここだ。あの時の店だ」
見上げると赤い屋根の風合いはここ数年前に改装したような感じで、外壁も居抜きで手に入れた店を、何度も塗装し直したような痕跡が見られた。以前来た時も古い店だと感じたが、あれから更に17年以上経っている。相当古い建物だった。
店の入り口のドア横には、50センチ四方のオークの無垢材にドラゴンの彫刻が施されている看板があった。お世辞にも上手いとは言えないが味のある彫刻だった。おそらく素人が作ったであろうその看板の彫り込みの下には店名が描かれてあった。

『シェンロンの背中』Shenlong

シェンロン?漫画のドラゴンボールみたいだ。妙な店名だなと思いつつ、心臓の鼓動の高鳴りを抑えて龍一はドアの把手に手をかけた。
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