小鳥遊(たかなし)由美は細身のジーンズに白のスェットの軽装でやって来た。髪をポニーテールにしてノーメイクだったが、目尻の切れ上がり方と鼻梁の細さがわずかに気の強さを感じさせるものの、間違いなく美人の部類に入るだろう。歳の頃は四十前後といったところだろうか。三十代前半でも十分通じそうだった。その由美が紀州みかんの段ボールを抱えた龍一を見るなり、
「確かにナウマン象ではなさそうね」
と笑って病院の鍵を開けて照明をつけた。
小鳥遊動物クリニックは個人経営の小さな動物病院だったが、中は明るく小綺麗な印象だった。由美はアイロン台を巨大にしたような白い診察台にサチコを載せると、手際よく診察を始めた。龍一に言うとも独り言を言うとも、どっちつかずの話し方で病状や療法をしゃべり続けた。
「カリシウィルスのほうね。インターフェロン注射しときましょう。人間も同じだけど子猫や老猫は抵抗力が弱いから、風邪といってもとても危険なのよ。サチコちゃんの場合、神島さんが拾ってあげなくて、もしまだ軒先に放置されてたら命取りになってたはずよ」
龍一はわざわざ日曜の夜中に来てもらったことと、サチコの命を救ってくれたことで、二重の感謝の意を伝えた。すみませんと、ありがとうございますを、何度も繰り返すしかなかった。由美は言った。
「すみませんは、猫を捨てた人間が言うべきこと。ありがとうを言うべきは、サチコちゃんが神島さんに、だね」
今後の猫の対処法を告げ薬を処方した。携帯番号の入った名刺を差し出しながら、やっとにっこりと微笑んだ由美に龍一が訊ねた。
「それにしても動物の急患がでるたびに、こんな夜中に仕事していたら体がもたないでしょう」
「これを仕事って思ったことはあまりないわ。使命感なんて言うと格好良すぎだし、それはちょっと違うわね。好きで当たり前のことを毎日してるって感覚かな。たぶん人間嫌いの医者っていると思うけど、おそらく動物嫌いの獣医っていないはずよ」
切れ長の目尻を緩ませて瞳に少し憂いを含んだ色を浮かべて由美が続けた。
「忙しすぎてね。ダンナは普通のサラリーマンだったけれど、すれ違いばかりでとうとう女を作ってね、だいぶ前に別れたわ。おかげで今は夜中でも自由に動けるようになったけど。ただ佐智子...、あ、うちの娘ね。娘には淋しい思いをさせてしまってるわね」
遠い目をしていた由美ははっとして言った。
「あらやだ。初めての人にこんな話をしちゃって、ごめんね」
「いえ、全然、とんでもないです。娘さんの佐智子ちゃんは今いくつなんですか」
「今年高校生になったばかり。『あたしは将来お母さんみたいな医者なんかならないからね、言っておくけど勉強出来ないからじゃないし、半分ボランティアみたいに忙しい思いをして厳しい仕事したくないしさ』って一丁前な口をきいて。でも娘とはすごく仲が良いのが救いかな。先週も佐智子と腕組んで原宿歩いてたら、店の人に姉妹ですかって。お愛想と分かってても女は嬉しいものよ」
「あはは。それには僕も店の人に激しく同意します、渾身の力を込めて。だってお奇麗だし若いし、それに...」
「それに何よ。遠慮しないでもっと言って」
二人で笑った。サチコは少し落ち着いたように見えた。逆にちょっと安心した龍一は体がふらついてきた。かなり状態が良くないのは自分でも理解していた。じっと目を覗き込んできた由美がまた元通りに目尻をきつく上げて言った。
「ちょっと、あなた、神島さん。あなたこそ大丈夫?ひどく熱があるんじゃないの?」
すぐに体温計を取ってきて龍一に計るように言い、しばらくしてその目盛りを眉間に皺を寄せて見て驚いた。額に手を当てたあと両目の下瞼をめくったが、仔細に点検するまでもなく口早に言った。
「手が火傷(やけど)するかと思ったわ。今日のお代は後日でいいから。それと明日の朝必ずサチコちゃんの様子を電話でいいから報告して。本当なら来院して連れて来て欲しいけどあなたのほうが無理みたいね、これじゃあ」
由美は立ち上がると白衣を椅子に乱暴に脱ぎ捨て、ポケットから車のキーを取り出して言った。
「家まで送るから。今晩は絶対安静にしてぐっすり休んで。サチコちゃんもあなたも」
由美が龍一のアパートの前に車を止めた時は日曜の深夜0時を過ぎていた。龍一は車を降りて何度も由美に礼を言い、サチコの段ボールを抱えてふらつきながら外階段へ歩こうとしたが、腰が思うように伸びずまるでエッシャーの絵画に描かれた土人のような歩き方になった。由美がたまりかねて車のウィンドウを下げて声をかけた。
「ねえ、神島さん。あなたご家族は?奥さんいるの。実家じゃなさそうだし。もしかして一人暮らしなの」
「ええ、残念ながら。昨日までは奥さんになるはずのひとと一緒だったんですけど。代わりにちっちゃい娘が来ました。全然大丈夫です」
年上といえども、女に対して弱いところを見せないことを自分の信条とする龍一は、目一杯虚勢を張ったつもりだった。
「全然大丈夫って、全然大丈夫じゃないじゃない」
由美は少し躊躇ったのちにエンジンを切り車から降りて、サチコの段ボールを龍一から奪い取ると続けた。
「しょうがないわねえ。独身男の家に上がるなんて何十年ぶりかしら。私は獣医師であって人間の看護師じゃないんですけど」
由美に促されて階段を上りながら龍一は改めて思った。こんな時に希伊がいてくれたら。どうして出て行ったんだ、どこへ消えたんだ、希伊。朦朧とした頭で家に入るとまっすぐベッドに向かったのだが、途中で床にくずおれてしまい次第に意識が遠のいていった。目の前にまたあの灰色のベールが降りて来た。ベールの向こうで由美が何か叫んでいたが声は聞こえなかった。
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