日曜の夕方に目が覚めることほど残念なことはない。部屋は薄暗く、起きた瞬間は今が日の出前の朝の時刻なのか、日が沈んで間もない頃なのか判断がつかないことがある。少しずつ就寝前の記憶が溶け出すにつれ、または外の雑多な音が耳から脳に届くうちに、やっと日曜の夕方なのだと分かってくる。朝だったならば光り輝く休日の一日に期待に胸がふくらみ楽しい気分になろうというものだ。しかし、起きたとたんに今が夕方と分かった時はとてつもない喪失感に見舞われること必至だ。ひどく理不尽で大きな損をしたような、あるいは人生の半分を棒に振ったような暗い気持ちになる。
龍一が目を覚ましたのは夕刻をとうに過ぎた夜の九時過ぎだった。十二時間以上も眠っていたことになる。もっとも大量の寝汗をかいて数時間おきに目が覚めたのだったが、起きて着替える気力は全くなく、熱で膨れあがった頭が枕を溶かしてしまったのではと思うほどだった。いつもの風邪と違い今回はどうもまだ快復に向かっていないようだった。それどころか寝る前よりも頭痛がひどくなり、目が異様に熱く痛かった。眼球の奥でニューギニアの原住民が伝統の火祭りを黙々と執り行っているようだった。
突然希伊の淋し気な顔が浮かび、それから一気に朝の出来事が蘇って来た。そうだった。
「サチコっ」
起き上がった龍一はベッドのそばに置いた段ボールの中を覗き込んだ。サチコは龍一に気づくとぼんやりと目を開けて鳴いた、ように見えた。実際は口を「みやぁ」の形に開けただけで、声は聞こえなかった。
「おい、サチコ、大丈夫か」
急いで外に出してみた龍一だったが、手のひらに乗せたそのちいさな、思いのほか軽い体は驚くほど小刻みに震えていた。口を何度も開けて鳴こうとするのだったが、全く声が出ない、出せないのだった。そのちいさな瞳は龍一に何かを必死に訴えているようだった。龍一は激しくうろたえた。今自分がなすべきことは何なのだ。しかも火急を要する事態に間違いないことを直感で悟った。
心の中のもう一人の自分がすっと立上がり声をかけてきた。
(早くどうにかしろ)と。さらに(おまえは全く役に立たない奴だな)と、そいつが追い打ちをかけてきて更にまた続けた。(おまえは昨晩希伊の話を聞いた時も、彼女を救うことができなかったじゃないか)...(朝本気で彼女を追いかけたのか?走り回る他に彼女を追う方法は本当になかったのか?)...(どうして駅まで探しに行かなかったんだ。駅員やタクシー乗り場の運転手に訊いてまわったのか?)...(おまえは自分の哀れな姿に酔っていただけじゃないのか。そうなんだろ。全くおまえって奴は、いや、俺って男はどうしようもなく幼くて弱いガキじゃないか)....。
龍一はふらふらする自分の体に命じて、急いで戸棚の中の使い捨てカイロを探した。龍一は使ったことはなかったが、希伊は冬によくこれを使っていたはずだった。消費期限など確かめることもなく、すぐに封を切ってそれをタオルにくるみサチコの部屋の奥へ置き、更に新聞紙を刻んで空間いっぱいに加えた。次に迷わず押し入れを探し、来週の木曜に廃棄しようと思っていた電話帳を取り出し、近くの動物病院を探した。ページを繰りながら龍一はパソコンを家にも買っておくべきだったと思った。会社では当たり前のようにパソコンで仕事をしていたが、まだ一般家庭でパソコンを持っているところは少ない。携帯電話は会社から社員に配られていたものの、それは管理職以上の者だけで、入社して数年の龍一は個人でやっと購入したばかりだった。希伊は持っていなかった。おもちゃのようなアンテナを伸ばして、小さなモノクロ画面でメールと電話ができるものだ。パソコンがあったならこんな時の処置方法はインターネットで簡単に調べられるはずだった。
「そうだ、梅川に電話してみよう」
梅川は龍一と同期入社で気の置けない友人でもあった。確かあいつも先日携帯を買ったばかりだったはずだ。ウチの会社はケチくせえなと言いながら。しかも家では猫も飼っていると以前話していた。ボタンを押す作業ももどかしく梅川に電話した。
「こちらはNTTドコモです。おかけになった電話番号は電波の届かない...」
携帯を床に叩きつけようと思ったが思い直し、そのまま電話帳に載っている動物病院に片っ端からかけてみた。日曜夜なのは分かっていたしダメもとだった。数軒かけたがみな留守電だった。氷の国の住人が冷たい電子音声でマニュアルどおりのことしか言わない。構わず4軒目に電話する。やはり留守電のようだったが、FAXに切り替えるかこのまま待つかといった音声のあと、しばらくすると違ったコール音が聞こえてきた。
「はい、もしもし小鳥遊(たかなし)動物クリニックですけど」
女性の声だった。それは氷の国からではなく、光り輝くモンゴルの草原から届いたような声に思えた。女性特有の甲高い声ではあったが、その声音(こわね)にはどこか草原を渡るおおらかな風のような匂いがあった。
「あの、ええと、サチコがですね、大変なんです、今にも死にそうで、僕どうしたらいいか、それで、えっと、アドバイス下さい、お願いします」
草原の声が返してきた。
「まずはあなたの名前はなんていうの」
「神島といいます」
「カミシマさん、落ち着いて。あなたがどんなに焦ったってサチコちゃんは良くならないわよ」
「あっ、はい」
確かにそうだ。草原の声が続いた。
「まず私の訊くことに答えてちょうだい。サチコちゃんは犬なの猫なの蛇なの。それともテナガザルなのかアフリカ象なのか、かろうじて女の子なのは理解できるけどね」
「子猫です。少なくともナウマン象でないことだけは確かです」
一気に冷静になった龍一は、今朝から今までの顛末をかいつまんでダイジェスト版にし、小数点以下を切り捨てながら簡潔に説明した。ひと通り黙って聞いていた草原の声は言った。
「すぐにうちの病院に連れていらっしゃい。場所はわかるわね。私は今病院からの転送電話で携帯で受け取って自宅で話しているんだけど、今からここを車で出るから、そうね、20分後。大丈夫?」
「分かりました。15分後には病院の前で待ってます。タカナシさん、本当にありがとうございます」
「私の娘の名前がね、偶然だね、佐智子って言うのよ。佐渡の佐にトモって書いて、子どもの子。神島さんのサチコちゃんは?」
龍一は一瞬、幸せに子どもの子と思い浮かべたが、あのじいさんに訊いてからにしようと思いとどまった。
「カタカナでサチコです」
「そう、分かったわ。じゃ、あとで」
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