「はあ?何?ベーランって」
部長の孝雄は半分興味なさそうな顔をしながらも龍一にたずねた。
「野球で言うベースランニングの略ですよ。野球のダイヤモンドって知ってますよね」
「それくらい知ってるしぃ。ダイヤモンドの4Cはカラット、カラー、カット、クラリティーで、地球上で一番固い鉱石の一つだろ....って、おいおい、冗談、ジョーダン、マイケル・ジョーダンだっつうの。知ってるよ野球のそれ」年に似合わず若者言葉を駆使し、相変わらずさほど面白いとも思えないオヤジギャグを連発する。しかし龍一は孝雄のことは嫌いではなかった。仕事は自分なんか太刀打ちできないほどできる男だったからだ。むしろ上司として尊敬している。人は一長一短ではあるけれど。
「あはは。で、そのダイヤモンドを一塁、二塁、三塁、本塁と一周ランニングする練習があるんですよ。これを何度も反復します。まあ、これは野球の練習の一種の王道と言っても過言ではないくらいのメニューなんです」
「へえ、そうなの。きつそうだな。今の俺がやったら二塁を回ったあたりで即死しちゃうよ」
「スポーツってなんでもそうですけど、何回も何回も同じトレーニングをして、自分の脳みそと体にがっつり記憶を打ち込むんですよ。試合になった時にそれで初めて、0コンマ何秒の瞬間にも、ちまちま何も考えなくても勝手に体が動くわけなんです。天才はそんなこと必要ないんでしょうけど」
「天災は忘れたころにやって来る。天才は忘れること自体ない、ってか」我ながらうまいこと言ったなと、ちょっとドヤ顔をしてみせた孝雄は一瞬腕時計に目を走らせ、続けた。
「ベーランっていわゆるルーティンワークみたいなもんだな。神島。ルーティンって言えば、おまえ先週の日報まだ書いてないだろ。会社戻ったら速攻でメールするように、だな」
午後の始業時間が始まろうとする十二時五十分、孝雄はニヤリとして伝票をつまみ上げ席を立った。
3時からは来月から始まる福岡の物件のプロジェクト会議だった。営業担当も含めてディレクターは孝雄、チーフデザイナーは龍一、その下にデザイナー数名でチームを組むほどの大きな仕事だった。これを遂行しながら個々に抱えている別のクライアントの案件もこなさなければならない。当然外注スタッフも招集することになる。日本でも有数の歓楽街中州で、中古のビル一棟まるごと飲食店に改築するものだった。デザインコンセプト構築の話になった時に、一個の言葉で会議は紛糾した。「上級」と「上質」の違いで論戦がくりひろげられたのだった。若手の月地信介が言った。
「ここは上級でしょ。オーナーは金に糸目をつけないタイプだし派手なデザインを好むはずですよ。上質ってソフトに言うよりは上級とかいっそ最上級のほうがいいと思います」龍一は反論した。
「でもさ、月地。俺たちって派手で華美な奇をてらったデザインをやりたいか。クライアントのニーズに応えるのは俺たち商業デザイナーの宿命だし、そういう意味では月地の言うことは正論だと思うよ。でもそこを敢えて上質の設計で臨んで、結果オーナーにも喜んでもらうのが本当だと思うな、俺は」プレゼンの一個の言葉を巡って三十分もブレーンストーミングする。結局最後は孝雄が「コンセプトは上質の空間で行こう」と決定した。
そんな会議を三時間もしていれば集中力も欠いてくる。早くデスクに戻って明日朝提出の図面を仕上げなきゃいけない。今日もまた終電近くまで残業だなと、龍一はげんなりした。集中力を欠くと人は違うことを考え始めるものだ。会議が二時間を過ぎた頃、会議テーブルの向こう側に座る恭子に目をやった。龍一には彼女との関係性において、過去に苦い経験があった。恭子は大学生の時にインターンデスクでこの会社に来て、そのまま卒業と同時に入社したクチだった。デザイナー志望だったが多くの新人がそうであるように、結局は設計部の事務一切を担う係になった。メンバーが出張の際には航空機を手配したり経費精算などの細々とした仕事もいやがらずこなしていた。入社から一ヶ月後孝雄の一言でだいぶ遅くなった彼女の歓迎会を開いた。その酒席で龍一は頬を赤く染めて自分を見る酔った恭子の目に、先輩後輩の関係以上の、女の目線を感じたのだった。
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「4」に続く。
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