県立山形南高等学校に入学した真壁は、一も二もなくサッカー部へ入部した。
小学生の時分から夕方になると、家から歩いて3分のこの高校へ当たり前のように通い、高校生が部活をやっている所へ行き、近所の友人とあちこち探検しては遊んだものだった。レスリング部のマットの下に空気を送り込んで巨大なテントを作り、もぐり込んだはいいが程なくしてしぼみ始めあわや窒息しそうになったり、水泳部のプールに行った時は遊び半分で高校生にプールに投げ込まれて、足が底に付かないことに気づき、半ズボンを着たまま溺れそうになったり、野球部の外野の球拾いを手伝ったり、サッカー部ではゴールキーパーを立たせてのシュート練習に、「おまえもやっていいぞ」とお兄さんに言われて嬉々としてボールを蹴ったはいいが、あまりのボールの重さに足首が折れたんじゃないかと思えるほど痛い経験をしたり....。少年真壁のお気に入りは、高校生と一緒にボールリフティングをやることだった。またゴールをはずれたシュートが隣りのテニスコートへ飛んで行けば友人と競ってサッカーボールを拾いに行き、それを高校生のところへ返しに行くと「おうっ、ありがとな」と言われるのがなんとも嬉しかった。
そんな真壁は中学をサッカー浸けで過ごし、受験は公立南高校一本、通称ナンコーに入ってサッカー部に入るのが当たり前だと思っていたし当たり前のように合格したのだけれど、南高が県内ベスト5に入る難関進学校だと知ったのは、入学したあとだった。
当時の運動部は全国どこでもそうだったと思うのだが、うさぎ跳びでグランドを何回も周回したり、どんなに炎天下でも何時間でも水を飲んではいけないのが部活の不文律だった。それでも不思議と誰も倒れたりはしなかった。水を飲んだら最後、自分が自分に負けるような気がして。
南高は公立男子校、文武両道、質実剛健の学校であった。サッカー部は野球部ほど厳しくはなかったものの、逃げ出したくなるくらいの毎日辛い練習があった。でもそれをどこかで楽しんでいる自分もいた。成長期男子の汗と革と保革油の渾然一体となった部室の強烈なあの匂いも今は懐かしい。
グランドはサッカーと野球部が共有で同時に部活をやっていた。野球部に背を向ける格好でゴールに向かって黙々とシュート練習していれば、背後から野球部の硬球ががんがん飛んできていた。野球部の連中から「行ったぞー!」と声がかかると、サッカー部は皆首をすくめて身を守る体勢になった。亀が甲羅に頭を引っ込めるように。或いはナメクジが塩をかけられた瞬間のように。逆にサッカーボールが野球部の内野に転がっていき、球を拾いに行く時は命がけだった。銃弾を避けて進む戦場カメラマンみたいに、あの硬い硬球がびんびん飛び交う中をかいくぐって、拾いに行くのだった。今となっては恐ろしい話だが、小学生が高校のグランドで部活に混じって遊んでいたり、現代では考えられないのどかな、かつ安全管理面では信じられない時代だった。
1年の夏、合宿で学食の2階に泊まり込むことになった。
この合宿話を書いたらまた長くなるので割愛。
その時期の前後だっただろうか、南高野球部が初の甲子園出場が決定したのだった。当時の真壁は野球に毛ほどの興味もないサッカー小憎だったけれど、さすがにこの一報には驚いた。甲子園出場がどれほど凄いことなのかを知るのはずっとあとの大人になってからだけれど。奇しくもその年、サッカー部は県大会決勝で敗れ、高校サッカー選手権全国大会への夢は破れたのだった。
当時山形県で甲子園に行くのは日大山形と相場が決まっていた。毎年夏の決まった日に町内盆踊り大会がある恒例行事のように、日大が甲子園に行くのが当たり前だった。公立校のひがみ根性もあって巷間まことしやかに囁かれた話。「日大山形は誰でも入れるとこだべよ」「野球部は毎日授業もしねえで、朝から晩までナイター設備もあって、一日中野球やってんだとよ」なるほど毎年強いわけだと得心。そんな不毛の時代だから公立の文武両道の学校が甲子園を決めたのは意味深いものがあったのだった。
思春期の真壁は勉強とサッカーは1年生まで。2年からはワルいことを覚えて甘美な退廃の奈落の底へ落ちてゆく、大袈裟に言えばだが。
顧問のKanemura先生に退部届けを出した。K先生は激怒し、やがて真壁の親友を通じて説得を試みるも結果は変わらず....。
(因に後年Jリーグが発足した際、かのK先生はモンテディオ山形の初代GMになった人物。更に偶然であるが、中学時代サッカー部の一個先輩であるNakaigawaさんが現在のGMに就任している)
あのとき、本当に、マジで、サッカーを続けていればよかったと、大人になってから何度も悔い入り思い返すことになった。半面、部活を脱線したからこそ得られた貴重な経験もいい想い出となっているのだけれど。
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2013年今日、夏の甲子園で山形県勢初の4強に入った日大山形。対明徳義塾戦は見応えのある試合だった。日大三、作新、明徳と全て歴代優勝校を撃破しての快進撃。周りからはまた「一勝して来いよ」と言われたそうだが、その悔しさをバネに目標の4強入りを果たした。どうせなら、史上初の東北勢同士の岩手との決勝戦が観てみたい。以前決勝で宮城東北高校が敗れて東北に初の優勝旗をもたらすことが出来なかった年を思い出す。その東北高校3年には有馬フレンズOBのMiyataがいたのだった。そして一年後輩にはダルビッシュがいた。
郷里に想いを馳せれば、若き日の確執はすでにない。山形と言えばほぼ初戦敗退、良くて2回戦進出であった。正直者で朴訥な県民性、悪く言えば優柔不断。華々しいスター選手もいなければマスコミが好きそうな爆発的な打力があるわけでもない。でも、やっぱり郷里の高校が甲子園で活躍する姿には目を細めてしまう。真壁が1年坊主のころ聞いた前言は白紙撤回、頑張れ日大山形。
継続は力なり。
勝っても負けても辛くても苦しくても、大好きな野球を最後まで続けた全国の野球小僧の高校生のキミ。
志半ばで挫折したオジサンは、真摯に頭(こうべ)を垂れてキミたちにエールを送りたい。
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