忘れられるわけはなかった。希伊は龍一の気持ちは痛いほど嬉しいし、気持ちがぐらぐらと揺れた。その気持ちに素直に応えられない自分にも腹が立った。
「私を引き取ってくれて育ててくれた今の両親には感謝してるの。せめてそれくらい感謝しなきゃ私、ひととして失格だもの」
そのあと目を曇らせながら希伊は言った。
「でも....私を極秘に養子に迎えたのは父剛の憐憫の情と罪滅ぼしではなかったのよ。それも多少はあったかもしれないけど。父と母は子どもが出来ない体だったの。相当お金をかけて不妊治療したらしいけど。そこへ金沢のことは父にとって渡りに舟だった。あえて男の子ではなく、女の子をもらって将来優秀な男を選び抜いて跡継ぎを作って婿入りさせれば会社は安泰だという、人として信じられない打算があったのよ。私は道具だったのよ」
「そんな親っているか。ひどすぎるよ」
希伊は悲しみと憤りの混じった複雑な表情で続けた。
「母もある意味被害者だったかもしれない。夫から突然知らない赤ちゃんを押し付けられて、立派に育てろと言われたようなものだったろうからね。でもね母から愛情を感じたことは一度もなかった。見栄っ張りな彼女はひたすら一流の子にするためだけに私を教育したの。たっぷりとお金をかけて。でも子どもながらにそれが嫌で仕方がなかった。大人が思ってる以上に、子どもって親の背中を見てるものよ。産みの親より育ての親って言うけど、私の場合は残念ながらそうじゃなかった。何も疑問を抱かずにいたら、今頃はのうのうと親が準備した優秀な男とお見合いでもしてたんだろうな」
龍一は話を聞きながら我がことのように憤然とした。
「今の話はね、大学に進学して2年生になった時に、つまり龍一と出会う少し前に、思い切って両親と向かい合う決心をした時のことなんだ」
希伊は大学なんてもうどうでも良かった。それよりも本当の自分を知りたくてある晩永山の両親と対峙(たいじ)したのだった。高校生の時に探偵事務所を使って調べ上げた事実を告げた時の両親は驚きを隠せなかった。しかし、そのあと夜を徹して話してみると、親の化けの皮が徐々にはがれて、打算の上に自分を引き取ったことが露呈した。しまいには剛は妻を非難し妻は夫に罵声を浴びせた。妻はもはや希伊のことよりも、今までの剛の数々の女関係を暴露しはじめた。
それを断ち切るように最後に希伊は無感情な顔で言った。
「お父さんお母さん。お父さんお母さんって呼ぶのはこれで最後になると思うけど。いままで私を育ててくれてありがとうございました。それだけは感謝します。でももう耐えられない」
一気に階段を駆け上がった。自分の部屋に飛び込みベッドに倒れ込むと、壊れそうになる心を必死でつなぎ止めた。涙が止まらなかった。
三日後に希伊は大学に退学届を出し、永山の親には一切自分を捜さないように言いおいて家を出た。住み慣れた閑静な自由が丘の豪邸とは真反対のイメージの池袋へ向かった。西口の商店街にある小さな不動産屋のドアを開けた。
「保証人のいらない安いアパートはありませんか?」
ワンルームの部屋を手に入れた希伊は、今までの自分を捨てて、これからの自分を見つけて行こうと心を新たにした。そして一週間後に見つけたアルバイト先で龍一と出会ったのだった。
だいぶ時間が経った。天は雨の勢いを衰えさせるつもりは毛頭ないようだ。隣ではすべてを吐露し安心したのか、すでに希伊は寝息をたてていた。
まだ眠れないでいる龍一の頭にはある映像が浮かんでいた。希伊が灰色の月面に独り佇み、暗い太陽と黒い地球を呆然と眺めている。希伊の顔には淋し気な雨が静かに降りそそいでいる。
次第に泥のような睡魔に襲われた。龍一は眠った。車にひかれて轢死した猫のように。
明け方になったのだろうか。龍一は薄明るくなった窓のほうを見やると幾分雨脚は弱くなったように思えた。何か言いようのない空疎な感覚があった。歯ブラシ立てにさしてある二本の歯ブラシの一本が、ある日突然紛失してしまったみたいに。横にいるはずの希伊がいなかった。先に起きたのだろうか。嫌な予感がした。がばりと跳ね起きた龍一が目にしたものは、枕元に置かれた希伊の短い書き置きだった。
『リュウ、ほんとうにごめんね。いつかまたその日がきたら逢いたいよ』
「ばかやろう!」
靴をはくことすらもどかしく、すぐに外に飛び出した。雨天の日曜早朝。景色は灰色に霞んでいる。ほとんど人通りのない路上を雨に打たれながら駆け回った。もう無駄だと知りつつも龍一は走った。すでに自分がどこにいるのかすら分からなくなっていた。息を切らせて舗道に立ちすくみ、深い井戸を覗き込むようにがくりと膝をついた。
「ばかやろう!」
龍一はすでに意思を持つことを放棄した。背中にはまた激しくなってきた無数の雨が突き刺さっていた。昨晩寝入りばなに見た月にいる希伊の映像と、今の自分が重なった。
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