2016年7月20日水曜日

小説「月に雨降る」14

月に降りそそぐ雨に存分に打たれた。神島龍一の視界には灰色のぼんやりとした景色が広がっていた。そこからは太陽も地球も見えなかった。希伊はどこに行ったんだ。そして今自分はこの月の上で何をしているのだろう。
頭の中から自分の意思を追い出し、自ら無になろうと舗道に佇んでからいったいどれだけ時間が過ぎたのだろうか。全身がずぶ濡れになり両肩は痺れるように冷えてくる。すると急に視界の上部が黄色いものでおおわれた。
「おう、あんた、大丈夫か、あん?」

黄色い傘をさした老人が上から龍一を見下ろしていた。黒い野球帽をかぶり上下とも作業服のようなグレーの服を着ていた。それはまるで灰色の世界から背景の一部が切り取られ、ぬらりと現れた実体のない塊のようだった。焦点の定まらない龍一の目を見て、こいつには言葉を発する意思がないと思ったのだろうか、老人は続けた。
「あん、大丈夫かっつってんだよ兄ちゃん。車にでもはねられたか。電話で救急車呼ぼうか。おう、そうだ、俺は最近流行(はやり)の携帯電話つうの、持ってねえけどよ」
老人は前歯が2、3本抜けた口を盛大に開けて、雨樋の奥に枯れ葉が詰まったような音をたててひゃらひゃら笑った。黒い顔の目尻に刻まれた皺は、年季の入った絞りたての固い雑巾を思わせた。雨はやっと小降りになってきたが、彼は自分が濡れるのは一向に気に介さずずっと龍一に傘をさしていた。正気に戻った龍一はやっと言葉を発した。
「すみません、ありがとうございます。大丈夫です」
「おう、あんた、どう見たって大丈夫って顔してねえけどな。ぼく大丈夫じゃないですって顔にマジックで書いてあるぞ。ほれ、鏡で見てみるかい。おう、俺、鏡も持ってねえわ」
老人はまたごぼごぼ笑った。水道管の奥に小石が詰まったような音がした。龍一はやっと立ち上がって改めて老人に頭を下げて礼を言った。
「声をかけていただいて本当にありがとうございました。おかげで少し元気になりました」
「おう、ちったあ元気になったかい。だけどあんたぼろ雑巾みてえな顔してるぞ」
じいさんこそ目尻の皺が雑巾みたいだと言いそうになって、龍一はちょっと可笑しくなった。
「ああ、やっと笑ったな。何があったか知らねえけどな、兄ちゃんまだ若けえんだからよ、頑張んなよ、おう」
やたら「おう」を連発するじいさんだった。自分の言葉に調子をつけるように、会話を円滑にするために加える潤滑油のようだった。
「おう、いけねえ電車に乗り遅れっちまう」
雨の日曜の早朝、七十がらみの老人が電車で出かけることはそう多くはない。
「どちらへ行くんですか、こんな日に」
「犬の散歩に見えるかっつうの。おう、もっとも俺、犬は飼ってねえけどな」
またがらがら笑った。
「昔は猫飼ってたんだけどよ。七年前にうちのババアが死んでな、その一週間後に逝っちゃったのよ、サチコもよ」
サチコというのが老人が飼っていた猫の名前のようだ。
「今から電車に乗ってよ、駅十個くらい行ったとこの、駅前から出てる弁当工場の送迎バスまで行かなきゃなんねえ」
老人は龍一の目を見て続けた。
「知ってるか兄ちゃん。コンビニに並ぶ弁当、あれはよ、弁当工場で真夜中に作ってんだよ。夜勤の連中は夜中の十時におばさんやら若いねえちゃんやら中国人とかが出勤して来てな、ごっそり夜通しで弁当作るんだわ黙々と。朝までに店に並べるためによ。そのパートのおばさんたちは朝五時までやってさ、それから家に帰ってよ、今度は子どもの中学校に持って行く弁当をまた作ってな。日中寝て夕方から別のパートに出かけてよ、十時になったらまた弁当工場だあね、おう。俺も昔はやってたけどこの歳だ。もう日勤にしてもらったけどな」
老人はその弁当工場への出勤途中だった。そんな老人が見知らぬ自分に声をかけてくれた。龍一は胸の奥がじわりと熱くなった。今の自分が恥ずかしくなった。
「うまく言えないんですけど、今の話、なんか、その。とにかくもう一回元気になりました。さっきよりはずっと。ありがとうございます」
「おう、なんか知らねえけどよ、人に感謝されるなんて何十年ぶりだろうよ」
老人は空を見上げて雨がやんだのを慎重に確認し、乱暴な言葉遣いに似合わず丁寧に黄色い傘をたたみ、駅へと向かうゆるやかな上り坂に歩を進めた。二十メートルほど行った時、思い出したように老人は振り返り、龍一に向かって大声で言った。
「よお、兄ちゃんよ。さっきそこの角を回った時によ、なんか猫の鳴き声が聞こえたような気がしたんだわ。このまんまじゃあ、気になってしゃあねえ。悪りぃけどさ、ちょっと見てやってくんねえか」
龍一も大声で叫んだ。
「わかりました」
「おう」
彼はそう言いおくと一瞬立ち止まり、大きく息を吸ったかと思えば派手にしわぶき、のどの奥に詰まった枯れ葉や小石を車道の排水溝に一気に叩きつけた。小柄なゴジラが地表に火を吐くみたいに。彼はやれやれと言いながら坂をゆっくり登っていった。

老人が雨の日曜に出勤することと同じくらいに、猫が十月の冷たい雨の日曜に屋外で鳴き声をあげることは、そう多くないことに違いない。
ゆっくり角をまわって路地へ入った龍一の耳に届いたのは、いかにもか細い「みやぁ」という声だった。民家の軒先に置かれた段ボールは直接の雨の打撃は凌いでいたものの、湿気をたっぷり吸い込み見た目よりもずいぶん重そうだった。慎重に段ボールのふたを開けようとすると、ちいさな頭でぐいぐいふたを押し上げようとする力を感じた。すっかり開けてみるとそこには手のひらに乗るくらいの大きさの命があった。ちいさな体躯に不釣り合いなほど大きなふたつの黒い瞳が龍一をきょとんと見上げていた。後ろ脚で立ち上がり前脚を段ボールの縁に乗せて、しばらくまわりをきょろきょろ見渡していた子猫は、また龍一をじっと見つめてもう一度鳴いた。
「みやぁ」
「やあ」
龍一は自分でも間抜けな返事をしたと思った。ひと昔前の漫画じゃあるまいし、今どき段ボール箱で子猫を捨てるなんて、なんてひどい人間がいるものかと憤った。
「寒くないか。よかったらウチに来るかい。狭いところだけどさ、ちょうど今日から枕がひとつ余っているんだ。おまえ運がいいな」
龍一にはこの子猫が雄か雌かも知る由もなかったが、さきほどの人のいい老人の話を思い出し迷わず言った。
「ウチ来なよ、なあ、サチコ」
「みやぁ」

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