恭子は黙って話を聞いていたがやっと口を開いた。
「父子家庭になってそのあと子育てはどうしたんですか。だってうちみたいな職種の会社は公務員と違って、夜遅くまで残業とか休日出勤もあるし」
「ああ、それね。本当に運がよかったと思うよ。近くに懇意にしてる少年野球の仲間の家庭がいくつかあってね、うちの子を家に招いて、晩ご飯食べさせてくれたり、風呂に入れてもらったり。仕事帰りの夜に子どもを引き取りに行く時はもう恐縮で、今でも頭が上がらないよ。もちろんそれなりのお礼はしてるけど、どんなにお礼してもし足りないよ。もしもっと子どもが小さい頃だったらそれも無理だったろうな。俺は定時に帰れる仕事に転職するか、高知の田舎に帰って親と同居するかだったろうね」
薄くなったバーボンを飲み干し、グラスの氷をからりと音をたててコースターに戻すと続けた。
「その家庭って沖縄出身なんだけどね、沖縄の風土って家族愛っていうか、人とひとの絆をとても大事にする県民性があるんだな。たぶんそれって日本一だと思う。もちろん、そのほかの家庭もうちと温かく付き合ってくれてるんだ。それに甘えちゃいけないと思ってさ、徹夜明けの日曜でもなるべくグランドへ行って設営やったり審判したりしてるんだけどね」
「それってでも神島さんにそれだけの人徳があるからじゃないですか。神島さんだけじゃなく、周りのひとたちに恵まれる人っていうのは、その人に魅力があるからだと思いますよ」
「そうかなあ」
龍一は照れ隠しに真壁に声をかけ、目線と仕草だけで自分と恭子のおかわりの酒を頼んだ。真壁も無言で頷く。
「俺、人徳なんてなんもないよ。東京ドームの観客席の椅子一個ぶんくらいはあるかもしれないけど。俺は人が思ってるほど立派な人間じゃないさ。そういうことって自分が一番よく知ってるものだよ。逆に自分の醜い部分って自分が一番気がついてなくって、ひとにはあからさまに見えているもんだ」
「一般論としては私、その意見賛成です。でも神島さんに限って言えば、社内でも周りからの評価高いですし、知らないと思うけど会社の女子たちの間では神島さん意外と人気あるんですよ」
「意外は余計だろ。マジっすか。明日から俄然仕事やる気になっちゃうなあ。東京ドーム何個分くらい人気あるの?」
「えっ?ドーム何個分じゃなくて、ドームの中の観客席7席分くらいだな」
「五万五千席あるのに、そんだけ」
「そのうちの一個分は私が座ってる」
恭子は酒で赤くなった頬がまた少し赤らんだように見えた。龍一はとても素直に可愛いなと思った。いつの間に目の前には真壁が作った新しいグラスがふたつ置かれていた。
「でもさ、恭子ちゃん。今日は子どもたちどうしてると思う?たまたま田舎から親が遊びに来ててさ、朝、子らの面倒頼むよって言って出て来たんだ。もっとも中二になった息子はもう父子家庭に慣れたもんで、妹の面倒もよく見てくれるし、娘のほうも最近はしっかりしてきてね」
神島が何を言いたいのか、恭子は黙って聞いていた。
「少年野球を通じて助けてもらってる家庭があったり、そんなありがたい環境に恵まれてさ、それで俺はどうよ。子どもや、はるばる上京してきた親を放ったらかしにして、会社の可愛い女の子を誘って遅くまで飲んでるんだぜ。ひどい父親だよ。東京ドーム百個分の煩悩(ぼんのう)を抱えてるんだ」
「それってでも、人間らしく生きてるってことじゃないかな。別れた奥さんみたいに異常な場合は別として。今日いろんな話をいっぱい聞いたけど、ちゃんとやってるもん、神島さんて」
恭子の言うように本当にそうなんだろうか。龍一は二十代前半のあの記憶は片時も忘れたことはなかった。あの雨の日曜の灰色の情景がふとした時に蘇る。しかし反面、あの記憶を忘れるためだけに今日まで必死になって生きてきたようにも思う。人間らしく生きるってことって、いったいなんなのだろう。酔いも手伝って考えることをやめた。
「恭子ちゃん、あ、いや、恭子って呼んでもいい?」
一瞬目を丸くした恭子だったがすぐに、
「いつ、そう呼んでくれるのかと待ってたよ。今頃遅すぎだから」
「さっきさあ、観客席にひとり恭子が座っているって言ってたよね。その隣の席に俺が座ってもいいかな」
「今、もう、こうして座ってるじゃない」
恭子が龍一の椅子を指差すとそれを龍一はしなやかに握った。すぐに恭子はそれを強く握り返した。
勘定を済ませて外に出る時、マスターの真壁は相変わらず無表情だったが、珍しく目が笑っていたように思う。店内のビートルズはポールが歌うLet It Beに変わっていて、満月を横切る雲のようにゆっくりと流れていた。龍一の背中を『あるがままに』と押してくれたように感じた。そう言ってくれたのは果たして天の賢者の声なのか、それとも地の悪魔のささやきなのかはわからない。今の龍一にはどちらでもよかった。
階段を下りたところで恭子は龍一の左腕に右胸をさりげなくすり寄せて、腕を自然にからませてきた。その親密な円弧を描いた丸いものは、性急でもなく、かと言って慎重すぎることもなくぴたりと龍一に寄り添った。
山手線も日比谷線も終電は過ぎていた。ふたりは無言でタクシー乗り場とは違う方向にある、屋上のネオンサインが明滅する建物の、ほの暗い道へ歩いて行った。
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