2016年10月11日火曜日

小説「月に雨降る」26

奈津子は顔を上げて言った。
「あの子はそんな小さい頃のこともあなたに話したの」
希伊からはそんな虐待された話など何も聞かされていなかった。龍一の直感だった。たぶんこの人も幼い頃同じ体験をしてきたのだろうか。天童荒太や重松清などの家族小説で学んで知っていた。幼児期に虐待を受けた者は大人になってから自分の子にそれを繰り返す傾向があるということを。龍一も子どもの頃は厳格な父親が怖くて悪さをするたびに何度も頭を叩かれたりしたが、それを虐待と思ったことは一度もなかった。虐待にはある種の「憎しみ」が伴うのもなのだろうか。ましてや、この人は血の繋がりのない他人の子の養育を強引に押し付けられたのだ。しかしだからと言って虐待が看過される理由には絶対ならない。
幼児期に刷り込まれた虐待経験は繰り返す。
希伊がなぜこのことだけを俺に話さなかったのか。希伊がなぜ結婚や子どもをつくることを嫌がったのか。今やっと氷解したのだった。希伊が自分もそれを繰り返すことになる「負の連鎖」の可能性を怖れて、言い知れぬ暗澹(あんたん)たる不安があったのだろう。
もうここにいる意味がなかった。早く外の空気を吸いたくなった。
「今日は失礼しました。最後にもう一度訊きますが、希伊の消息はわからないんですか」
奈津子の虚ろな目は赤く充血して、宙を彷徨(さまよ)っているようだった。
「私も知らないの。あなたの言う二週間前の日曜にここへやって来て、私はこれから消えます、捜さないで、法的にもちゃんと離縁の手続きをして下さい、と言って出て行ったわ。主人もさすがに諦めたようで仏頂面で見送ったの。それと...」
「それと」
「最後に、もしかしたら神島という男性が訪ねて来るかもしれないけど、会わないでちょうだいって。なぜなら...」
「なぜなら」
「こんな親、恥ずかしくって彼に会わせたくないからって。しばらく沈黙したあとあなたのことが胸に迫ってきたみたいで、突然泣き叫んでここを出ていったの」
龍一は呆然とした。
失礼しますと言い置いて、奈津子を振り返らずに辞去した。どこをどう歩いたのか分からないまま、気がついたら奥沢神社の鬱蒼とした樹々に囲まれた境内にいる自分に気づいた。奈津子が言った最後の希伊の話を胸の中で反芻してみる。喉の奥が誰かにぎゅるりと捕まれたように締めつけられて、次第に下瞼から熱いものがほとばしり出て頬を伝った、とめどなく。それは突然の夕立がやってきて地面に大粒の雨が落ち、たちまち灰色の斑点を作るように、龍一の足元にぼたぼたと音を立てて落下していった。この涙がやがて大きな川になり、日本のどこかにいるだろう希伊の元へ流れて行って欲しかった。今の自分の想いを伝えるために。そこまで思い詰めていた希伊を救ってやれなかった自分を責めてみたが、あの時の自分も今の自分にもどうすることも出来なかった。自分の元を去り更に永山家とも縁を切った今の希伊は、文字通り天涯孤独の身になっているはずだ。その胸中を推し量るとますます胸を締め付けられる思いだった。

誰もいない境内の大きな銀杏の樹の下で途方に暮れて佇んでいた。どれほどそうしていたのだろうか。地べたに膝をつき肩を落としている龍一の背中を後ろからそっと触れる気配があった。驚いて振り返ると先ほどの家政婦が神妙な面持ちでいながら、優しい視線を龍一に投げかけていた。
「私は家政婦の城崎かな江と申します。先ほどは失礼いたしました」
立ち上がった龍一の頬に残されたその形跡を見て取って、かな江はそれが何を意味するかを理解したようだった。
「あまり時間は取れないのですが、少しお話をよろしいでしょうか。良かったらそこの階段に腰掛けませんか」
見るとすぐそこに立派な拝殿があり、中央に三段ほどの階段が設(しつら)えてあった。龍一は立上がり顔を両手でごしごしとこすりながらそこへ歩み寄った。かな江もあとから並んで座った。

「失礼とは思いつつも、先ほどの会話はドア越しにだいたいのことは聞いておりました。申し訳ございません。普段ならそんなことは一切しませんけれども、こと希伊ちゃんに関わることですから居ても立ってもおられず、ついテレビドラマのようなまねをしてしまいました」
そう言うかな江はにっこり笑みを浮かべて龍一を見つめた。
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