龍一は珍しくわずか1時間ほどの残業で恵比寿三丁目にある会社を出た。この業界1時間の残業は残業のうちに入らない。このところ全社的に少し仕事が緩くなってきて社員たちは概(おおむ)ね歓迎だったが、役員たちは眉間にシワを寄せることが多くなって来た。もともとT&Dは業界でも堅実経営の会社で有名で、年間を通じて多少の波はあっても大きく業績が落ち込むことは少なかった。しかし近年のリーマンショックの時は業界全体にわたり、春が終わりかけた頃に夏と秋を飛び越えていきなり冬がやって来たような冷え込みようで、その時ばかりは決まった案件が軒並みペンディングになり、現場も計画も凍結されて一時期売り上げが相当落ち込み、T&Dもその例外ではなかった。
サッポロビール工場跡地に建ったガーデンプレイスの高層ビルを左手に仰ぎ見つつ、山手線を睥睨(へいげい)しながらアメリカ橋を渡り、右へ折れる坂道をゆっくりと下っていった。ジャケットの内ポケットからiPhoneを抜いて恭子にLINEを送った。
『もうじき着くから』
すぐに返信が来た
『もう、一杯目のビール飲んじゃったよ』
『じゃあ、俺の分もいれてビールふたつ頼んでおいてくれたまえ、鈴木くん』
『了解しました、神島課長殿』
恭子と待ち合わせたのは恵比寿駅から歩いて5分ほどのデザイン学校の裏に出来たオープンテラスのある、日本そば屋の主人が出した創作和食の店だった。ほとんど人通りのない暗い路地に店名の入った控えめな行灯が置いてあり、垣根越しにテラス席の客の会話が漏れ聞こえるようなひっそりとした佇まいだ。龍一の取引先の尊敬する先輩に連れられて以来、恭子と何度か来ている店だった。最近の設計案件の話や会社での出来事、社内で誰と誰がつき合ってるらしいとか、朝礼の時に社長の頭が随分薄くなってきたことを発見したとか、とりとめもない話に興じた。腕時計を見て龍一が言う。
「そろそろ真壁が店を開けてる頃だな。Makiにいこっか」
「うん。いつものコースね。ラジャー」
「何、ブラジャーがどうしたって?」
「おお、そう来たか。リュウさんのエッチ」
「今頃気づいたの」
「キリストが生まれる前から気づいてたわよ」
「バレたか」
龍一は一瞬、昔こんな会話を希伊ともしたことがあったなと想い出して、恭子を前になんだか鉛を舐めたような気分になった。
大学時代の友人の真壁がやっているバー「Maki」は、恵比寿神社のすぐ横にある恵比寿西一丁目の小さな店だ。龍一が会社に内緒でバイトで設計した。以来ここも何度か通った。重厚な黒いドアを開けるとまだ準備中だったのか、いつものビートルズのBGMが流れていなく、しんとした空気の中で真壁が生真面目にカウンターを拭いているところだった。まるでギネスのボトルに発泡酒を入れてそうと知らずに飲まされたような気分だった。
「おう」
と龍一が言うと相変わらず真壁の返事は、二人の客の顔も見ずに、
「ん」
だった。他の客には『いらっしゃいませ』と経営者としての或いはマスターとしての最低限の言葉を発するのだが、龍一にはたいてい『ん』だった。たまに間違って龍一に『いらっしゃいませ』と言ってしまった時には、打者にフォアボールを与えてしまった投手のように軽く舌打ちしたりする。日本語の中でおそらく最も短い、彼なりの親愛の情を込めた単語なのだ。
「最近どうよ店の調子は、真壁」
「ん。まあまあだな」
真壁がまあまあと言うのはそれなりに商売になっている証拠なのだろう。龍一たちはいつも2、3杯飲んで帰るのだが、ここの店は夜半過ぎから六本木や中目黒から流れて来た常連客で朝まで賑わうのだった。恐ろしいほど無口で無愛想なマスターが、逆にその、人に媚びない人柄が人気の秘密らしい。かと思えば妙齢の女性の一人客などには親密に話し相手になったりもする。いつだったか店を閉める時に、泥酔した女性客をタクシーで自宅まで送ってやったことがあったそうだが、その話を聞いた龍一が、
「あらら、そのあとどうしたのよ」
という問いに彼は、
「ん、そのあとどうもしないよ」
と答えていたが、真壁の眉が微妙につり上がっていたのを見逃さなかった。思わずニヤリとした。真壁は嘘をつく時は必ず眉を吊り上げる癖があることを龍一は知っていた。
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