2020年12月31日木曜日

ちいさな靴下に思う

 年の瀬の30日まで、家の照明器具を3カ所変える工事(筆者の手仕事)をしたり、インパクトドライバーに研磨用ブラシを取り付けてキッチン床のガンコな汚れを除去したり、2020年最後の食べ納めで、味噌ラーメンとネギチャーシュー丼を食べに近所の「老麺魂」に行ったり、公園の水道で赤カブを洗ったあとガソリンを満タンにしたり...etc。これってコロナで必死の闘いを続けている医療関係者や、瀕死の瀬戸際に追い込まれている飲食店経営者などに比べたら、自分はなんて平和でささやかな小さな幸せを手にしているのだろうかと思う。明日は我が身なれど、公園で一服して青空を見上げてそんな感慨にふけった。

年の瀬日々雑感、ふたつ。

過日クリスマスに山形同級生LINEにこんな画像が送られて来た。まずはみなさん素直に計算やってみて。

計算してみたら確かにドンピシャじゃないか。スゲー!と素直に感動。山形LINEもざわついて大盛り上がり。すぐにいくつかのLINEグループや友人のLINEや息子や娘のLINEに転送した。反応は皆同じく感動的に良好だった。ところがしばらくして気が付いた。これって実に数学的に当たり前のことだったことに。これは「世界中の人が皆」や「1000年後」や「メリークリスマス」の文言に意識を奪われて、特別な年や今年だけの偶然の一致だと思い込んだのだった。

実に面白い。生まれた西暦に今の年齢を足せば、イコール2020になるのは全世界の全ての人に当てはまるのだった。来年は全世界の人が2021になるわけで。人の盲点をついた文学的ドッキリってゆーか、感心したのだった。友人と息子からは「見事に騙された〜」と返って来た。

今日照明電源工事の部品を購入に、通いなれた近くのホームセンターコーナンへ。年末のこの時期は買い出しで大賑わいなのだが、コロナのせいで客足は鈍いか...と思ったら、あにはからんや、店内はとんでもなく混雑していた。バイクを駐輪する隙間もなく自転車置き場に駐輪する始末。道路も渋滞しっぱなしだった。ここで言いたい。これを「なんだよ、コロナなんだから自粛してステイホームだろ」と思ったら大間違い。この混雑に筆者自身も加担しているのだから。よくテレビのインタビューなどで「街がが混んでて人が多くてびっくりした。3密?ヤバくない?」って映像が流れるたびに私は思う「オメエもその一因じゃんかよ」と。コロナに関しては多角的な視点から自省の念も含めて世の中を公平に睥睨すべきだ。自分の考えが常に正しいと思い込み深慮黙考せずに突き進む人は、まるで先日落選確定した米国某大統領のようである。

買い物を終えて喫煙所で一服。ムムム。フェンスの鉄管の先にちいさな靴下がちょこんと乗っていた。おそらく誰かが落ちていた幼児の靴下を拾い上げて被せたに違いない。筆者もよくこれをやる。皆さんも何度か経験あるはず。

想像と創造と妄想と構想が錯綜した。一服しながらきっとこうだったに違いないと文学的考察。若いお母さんか或いはお父さんが幼い子どもを連れてここで喫煙した。ちいさな靴下が脱げたけれどそれに気づかず立ち去った。靴下が脱げるということは2,3才児なら靴を履いて立って歩くはずだからほぼありえない。おそらく抱っこして脱げたわけで。抱っこするということはベビーカーに乗るほどの1才前後乳幼児のものだろうか。ムムム。それにしては靴下サイズ感が大きめだ。てことは1才前後の子にしては足が大きい子に違いない。ならば体も大きいか?。それなら5年後は是非フレンズかQueensにきて野球を...いやサッカー、バスケ...いやなんでもいいからスポーツを体験して欲しいな。足が大きくても小さくても、体が大きくても小さくても...。確かに言えることは体の大小よりも、スポーツをやれば「心」が大きく成長することは間違いないのだから。試合の勝ち負けよりも子どもにとって大切な何かはいったい何か?それを伝えたくてこのブログを書いているのが一つの大きな理由である。

そんなちいさな靴下を眺めながら妄想を膨らませ、6分間の刹那のアイコスの吸い殻を灰皿に捨てて赤カブで帰宅した。

もう明日は大晦日。息子家族がやって来る。例年正月三ヶ日に息子娘家族と一緒にやって来るのだが、今回息子は正月は仕事らしく今のうち年末に来ることになった。

息子や娘やマーゴが一歳年を取って成長するたびに、俺は同時に一歳老いてゆく。マーゴの成長を見る笑顔の目尻のシワも一本増えるけれど、同時に髪の毛は数百本減少する。

今年もあと一日。みなさま良いお年を(^-^)

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