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2017年9月29日金曜日

小説「月に雨降る」51

龍一のもとを去り自由が丘の実家にも別れを告げた希伊は迷うことなく金沢へ向かった。実の父、母である氷室伊三郎と希沙子のことを知るために。そして自分自身のことを知るために。決して多いとは言えないまでも当面の生活に困らないだけの蓄えはあった。しかし安いアパートを見つけるとすぐに飲食店でのバイトを始めた。東京でのバイト経験を生かせることに加えて、賄(まかな)いが出るので食費が大いに助かることが飲食店を選んだ大きな理由だった。がむしゃらに働いた。数ヶ月後、帰りのコンビニでいつも買う最低限の食料品以外にも、自分へのご褒美にと、ささやかなスィーツを買える余裕が出てきた頃、野田山の両親の墓へ行ったのだった。あまりにみすぼらしい墓石と対面した希伊は、会ったこともなく顔も知らない父と母に、自分を生んでもらったことへの感謝の気持ちを伝えた。この時ほど自分の父と母に会いたいと思ったことはなかった。次の瞬間嗚咽がもれ、墓石に抱きつくとやがて声を出して慟哭(どうこく)した。一生懸命働いていつか必ず立派なお墓を建てるからねと、亡き両親へ約束して野田山をあとにしたのだった。

バイトの飲食店は石川県下にファミレスや焼肉店など十店舗ほど展開するそこそこ大きな外食企業だった。かつて池袋の店で龍一がそうだったように、希伊は店長に頼んで通しのローテーションを多く組んでもらった。ほとんどアパートへは寝るために帰るような生活だった。一年もしないうちに正社員として働くようになった。会社に認められて社員に迎えられた希伊はますますその手腕を発揮するようになった。自分でも飲食接客業に向いていることを知った。会社規模も大きくなるにつれて数年後には管理職にまで登り詰め、社内では女性初のエリア統括部長にまでなった。業績もアップし会社への貢献度は相当なもので、店舗数も徐々にではあったが更に多店舗展開するようになった。しかしその裏で資金繰りが手詰まりになることもしばしば発生し、経営に大きな影が忍び寄ってきたことは役員しか知らないことだった。その頃の希伊は気がつけば三十路をとうに過ぎていた。希伊の夢はいつか独立し自分の店を持つことに傾倒していった。

順風満帆に見えたある日の朝礼の時、社長の挨拶に社内に衝撃が走った。突然東京の大手企業に吸収合併されることになったのだった。その企業名を聞いた希伊は驚きとともに暗澹(あんたん)たる思いに心が落ち込んだ。相手企業の名は「FMコーポレーション」。フォーエバーマウンテンの頭文字を社名にした、いかにも稚拙(ちせつ)で安易な発想で名付けた社名にげんなりした。「永山」の名を冠した社名。赤ん坊だった希伊を違法すれすれで引き取り育てた永山剛の会社だった。
約三十年ほど昔、巨大資本FMが最初に石川へ出店した店舗は当初2年間は黒字を計上していたが、その後徐々に売り上げは下降し、業態転換やブランドの首のすげかえなどで凌いでいたが、赤字がかさみついに地元の不動産屋に売却することになった。回復の見込みのない店舗は容赦なくスクラップアンドビルドで消えて行く。その後も石川県への進出ペースは鈍り他県に比べて最も店舗数の少ない県となった。強引な経営手法と潤沢な資本にものを言わせて永山が下した経営判断は、地元の飲食チェーン店を取り込んでFMの傘下に収め、一気に数字をV字回復することだった。格好の餌食となった希伊の会社は、恐竜に睨まれた小動物のようにがぶりと飲み込まれてしまったのだった。

思ったらすぐに実行に移す即断即決の希伊は、動揺でざわめく社員を尻目にその日の午後には辞職願いを提出し会社を辞めた。永山の家で育った希伊は贅沢の味を知っていたが、家を出てからは金の無駄遣いを極端に嫌った。反面教師だった。おかげで希伊にはそれなりの貯金があったが、会社を辞めてからはまたがむしゃらに働くことを選んだ。宅配便のドライバーや深夜の仕事に至るまで、様々な仕事を経験した。自分の店を持てる資金がある程度溜まった頃に仕事先で出会ったのが翔子だった。彼女は一人息子和也と暮らす離婚歴のある年上の女性で、希伊と同じく飲食店を開くことを目標に生きていた。お互いの家も行き来するような親しい仲になった。時に幼い和也を預かったり面倒をみているうちに、希伊の子どもに対する「畏(おそ)れ」に近い偏見のようなものもすっかりなくなっていき、むしろ自分は子ども好きだったのだと気づかされるようになった。

意気投合した二人は、共同出資しやっと念願の店を持つことになった。資金は7:3の割合で翔子が多く負担したが、出店の際の店舗改装や店名の考案などは希伊の希望で全部任せた。理由は希伊が飲食店のプロだったことや、実際の運営は子持ちの翔子よりも希伊が中心になるということもあったが、それ以上に希伊がどうしても店舗や店名にはこだわりがあって、譲れないものがあることを知っていたからだった。
物件を探している中ですぐに目に留まったのが「赤い屋根の店」だった。龍一と暮らしていた頃遊びに来た金沢で一度立ち寄ったことのある、希伊には思い入れのある店だった。しかも探していた諸条件にほぼ合致したもので、古い物件だったことも手伝って格安で取引が出来た。二人は現場を見て即決し不動産屋から所有権を移した。

店舗を改装しようと不動産屋から正確な現存図面を取り寄せた希伊がそこに発見したものはあまりに衝撃的だった。かなり古い図面のコピーだったが、平面図の左下に記載されていた施工会社名はこう記されていた。
「一級建築士事務所 有限会社 氷室工務店」
鳥肌が止まらなかった。
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2017年9月24日日曜日

平らな坂道?

先日は小説「月に雨降る」の佳境を迎えた場面をアップ。少年野球ブログにあるまじき、いわゆる「濡れ場」のシーンは極力抽象的な表現を用いたのだけれど、そのせいかどうか、いつもなら小説アップ時にはいわゆる「いいね」に相当するボタンが3から4くらいあるんであるけれど、今回は全く押されていなく、ゼロなんであった。うーむ、小説のリアリティーを求めるならば、構成上どうしてもこの場面をはずすことは出来ないので、苦労して表現したのであったが、ベッドシーンが裏目に出たのだろうか。少し気になっている今日この頃なんである。
今日Queensで二人の母がその感想を短く話してくれた。「あれは18禁マークね」と嬉しそうに言うし、もう一人は「読んでてドキドキしちゃった」とニッコリしながら言ってくれたんである。かなり救われた気持ちだった。
この小説は文庫本で言えばあと数ページ残すのみなんである。(と、思う)

さて今日日曜はQueensと野川台フォルコンズの練習試合であった。スケジュールが右往左往したけれどやっと確定、来週はシスタージャビット大会(めっちゃ強豪のVS東久留米@第一公園)、その翌週は川崎秋季大会(VS多摩区@御幸球場)なんである。それに備えての練習試合なんである。

しかし今日はそのブログは後日としたい。例によって写真チョイスで疲れちゃったからである。「おいおい、こんだけ今書いてるんだから、疲れてないじゃん」と言うのはナシである。オトナの事情というものを忖度されたしなんである。

とは言うものの、イタズラ心がむくむく涌き起こって今日のブログ。
フォルコンズの本拠地西野川ドームには何度も来ている。大昔ここで試合をやった時に、当時のフレンズにはYasukawaがいた。筆者が知る限り、フレンズ史上5本の指に入るほどの類い稀なる身体能力を持った子だった。その彼が1番先頭打者で打席に立ち、試合開始直後その初球を叩き、体育館の屋根に突き刺さる「先頭打者初球本塁打」を放ったことで強烈な印象が残っているんである。(当時は今のライト地点をホームベースにしていた。体育館はレフト外野だった)

更に今日写真を撮っていて思い出したのだった。
2009年だから8年前に書いたこのブログの黎明(れいめい)期、当時は面白可笑しく1枚の写真に比重を置いて様々な工夫を凝らしていたんである。外野フェンスに掲げられた「しぜんのさかみち=自然の坂道」

これをパロった写真がこれ。当時はのちに監督となるFukumotoさんが29番をやっていた記憶がある。
「しぜんのさかみち=自然の坂道」を、
「きゅうなさかみち=急な坂道」にしちゃったわけで。
当時のブログURLは下記。まだ自分のことを「筆者」ではなく「私」と気取って書いていた、稚拙(ちせつ)な文章のオンパレードであった。お恥ずかしい限り。
「勝つためには何をすべきか」2009年11月

これを思い出した以上、今回もこれを看過するわけにはいかぬではないか。
現在は看板がカラフルに新しくなった。これ。

でもって、今回もパロってみた。
良く見ればこの部分は「急な坂道」じゃないじゃん。勾配がなく平坦なので「たいらなさかみち=平らな坂道」にしたんである。FALCONSのロゴはオマケ。

写真合成してから気がついたのだった。
「おいおい待てよ。平らな坂道?」
地球上どこを探しても「平らな坂道」という場所は存在しないではないか。おそらく月や火星や冥王星に行っても「平らな坂道」というのはないはずである。
ご笑納下されまし、なんであった。
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2017年9月21日木曜日

小説「月に雨降る」50

「今度は私が話す番だね」
「うん」
「でもね、原稿用紙2、3枚じゃあ済みそうにないから、その前にちょっとシャワー浴びて来てもいいかな?今日もすっごい暑かったし、もう体がべたべたしちゃって」
「はあ?シャワーっていったい」
「あそっか、リュウは知らないか。ここの二階は私の家なの。この建物を購入した時に二階は事務所と倉庫だったんだけど、全面改装して住居にしたんだ、狭いけどね」
「ええっ?」
「二階に住んで、一階で仕事をするっていう、通勤時間ゼロ分」
「究極の職住近接。通勤定期代ゼロ円」
「んふっ、そうよ」
希伊は少し気恥ずかしそうに目をそらしながら龍一に言った。
「良かったら上で飲み直さない?ここだと仕事気分が抜けないし」
「いいね、昔一緒に住んでた時みたいに」
希伊はドアに鍵をかけ店内の灯を消し、二人でグラスやボトルなどを手分けして持ちながらキッチンの奥を通って二階へ続く階段を昇った。
そこは狭いけれど居心地の良さそうな小綺麗な居住空間だった。宇宙のどこか知らない小惑星にふわりと降り立ったような感覚に襲われた。寝室だけが壁で仕切られてあとは広めのワンルームだった。希伊は浴室へ消えて、龍一はリビングテーブルのソファに座りひとりでワインを舐めた。龍一にしてみれば胸に去来する記憶がいくつも渦巻いていたが、金沢に来てこんな展開は想像すらしていなかった。すでに過去も未来もここでは意味を持たず、ほんの僅かに時間軸と空間が歪んだみたいに、別世界にいるような今のこの時間を大切にしようと思った。

希伊が浴室から出て来ると、リビングに居るはずの龍一が見当たらなかった。トイレのドアの隙間からは光が漏れていないし、階下へ戻ったふうでもなかった。じゃあどこへ行ったのだろう。部屋はしんとしている。希伊は急激に不安になってきた。
「リュウ、どこにいるの?」
今日起きた今までの出来事は夢だったのだろうか。また私は独りぼっちになるのだろうか。ほんの一瞬たっだがそんな思いが頭をよぎった。その時背後に人の気配を感じた。
「ひゃっ!」
振り返る間もなく龍一がいきなり現れて後ろから抱きすくめられた。
「さっきのお返しさ」
希伊はなされるがままに龍一に両腕で抱き上げられた。「やだ、重いよ」という訴えを無視されて、耳元で囁かれた。
「もう我慢できない」
「...わたしも」
希伊は文字通り身も心も地上からふわふわと浮いたまま、ゆっくりと寝室へ運ばれていった。

最初は激しく性急に、にわかにかき曇った雨雲から突然稲妻が落ちるみたいに。二人とも野生動物が肉を貪るような時間はあっという間だった。
二度目は喪失した永い時間を取り戻すかのように、ゆっくりと丹念に、互いにひとつひとつのパーツを確認し合い、ホクロの位置や数や大きさ、丘陵の傾斜角やその固さ柔らかさなど、若かった頃の記憶と照らし合わせながら、親密で穏やかな時間が過ぎていった。ふたりは身も心も熱くひとつに溶け合っていった。

希伊はキッチンに行きビールとウィスキーロックのセットを持って来ると、リビングの龍一が座るソファの左横に座った。二人ともまだ体の火照りが収まらなかった。冷えたビールでもう一度小さな乾杯をした。
「やっとわたしが話す番ね」
「うん。夜はまだ長いし、太陽が顔を見せるまでにはまだ十分時間があるし」
「そうね」
「俺は途中何も挟まないで黙って聞いているから、希伊のペースでゆっくり話してくれたらいい」
希伊はこくんと頷きグラスをテーブルに戻すと、あの日以降の記憶をたどりながら、長い独白を始めた。
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2017年9月14日木曜日

小説「月に雨降る」49

シェンロンのほの暗いテーブル席で17年ぶりに再会した希伊と差し向かいながら、龍一はゆっくりとあれからの自分の来し方を話し始めた。

雨の日曜の朝、希伊が出て行ったことに気づいた龍一がいかにして街中を探しまわったか。妙な老人に声をかけられたこと、そして捨て猫のサチコを拾って連れ帰ったこと。近くの動物クリニックの女性獣医、小鳥遊(たかなし)由美の話に至ったときは「あの美人先生、私知ってるよ。元気かな」と希伊が相づちを入れたりして話は長くなりそうだった。
その後希伊の自由が丘の実家を訊ねたこと、永山奈津子とのやりとりとその顛末は詳しく話した。更に奥沢神社の境内で家政婦の城崎かな江と交わした約束。かな江の名前が出てきた時の希伊は、目を見開いて驚き涙をこらえるのに必死だった。希伊にとってのかな江は、育ての母、あるいは年の離れた姉のような存在であり、しかしながら金沢に来てからは電話一本入れていない自分を責めたに違いなかった。
T&Dの会社ではがむしゃらに仕事をしまくった。20代後半で結婚し引っ越しもして子どもが出来、そして彼らが大きくなってから離婚したこと。離婚の原因も正直に話した。原因と言っても龍一にもいまだに理解出来ない部分は大いにあるのだが、彼女の過去のことはすでに自分の中では抹消されていた。しかし龍一にとってはすでに他人だが、二人の子どもにとっては死ぬまで彼女は母親であり続ける。そんなことまで希伊に話すつもりはなかったが、胸の中のものを一気に話しておきたいという思いで、つい勢いで話してしまったのだった。

ここまで相づちを入れたり、笑ったり真面目な顔をしてりして聞いていた希伊が言った。
「ちょっと待って。ワインが凍っちゃうから」
パントリーからワインのボトルとグラスをふたつ持ってきた。龍一はソムリエナイフを受け取ると手際よくコルクを開けた。希伊と暮らしていた頃はよく家で安いワインを飲んだもので、コルクを開けるのはいつも龍一の仕事だった。あれ以来ワインなど開けることはめっきり減ったが、子どもの頃自転車に乗った経験があれば大人になってもすぐ乗れるように、手順やコツは頭と体に刷り込まれていた。
「相変わらずコルク開けるのうまいね。プロ並みだよ」
「いやいや、希伊のほうこそこんな店をやっていたらよほどプロじゃんか」
「ところがね、このコルクを開けるのだけは私、いまだに苦手なんだ。お客さんに出す時にね、こんな時リュウがいてくれたらなあって、いつも思ってた」
そんなことを言われて男は嬉しくないはずはない。龍一は照れ笑いしながら、もう少しいいかなと言って、最近のことを話し始めた。

「探偵の黒坂さんて覚えてるだろ?」
「ああ、黒坂さんか。もちろん覚えているよ」希伊は遠い目をした。
黒坂という探偵から会社に電話がかかってきたこと。彼も自由が丘の実家を訊ねて龍一の名刺から連絡先がわかり、二人で恵比寿で会って話したこと。黒坂は野田山の氷室家の墓地まで突き止めたことを龍一に話して聞かせた。それが唯一の手がかりとなり、金沢へ行くひとつのきっかけになった。今日もまずは墓地へ行き、そこからどうにかしてここへたどり着いたこと。黒坂は探偵業を引退して鎌倉で店を開くこともつけ加えた。黒坂の話を聞いた希伊は、驚いたようだった。女子高生だった自分に彼は、時間がかかるが追跡調査をしたいと言ってくれたことを思い出した。希伊の声はまた湿り気を帯びたものになり、鼻をすすった。
「黒坂さんに感謝しなきゃ、私」
「彼に感謝したいのは俺も同じさ」
龍一は続けた。これも話しておかなければいけない。
「もうひとつだけ。馬鹿正直って言われることは覚悟のうえで」
「なになに、どうした。リュウが馬鹿正直な人だってことは、昔から十分知ってるし」

龍一は会社で若い女子社員とつき合っていたことを話した。恭子とのことだった。ついでに離婚後恭子とそういう関係になるまでに何人かの女性とつき合ったことも話した。中には龍一がバツイチ子持ちを承知のうえで結婚を求める女性もいたが、でもどうしても彼女たちとの再婚の意思は持てず、龍一にとっては記憶の中を通過した女性たちに過ぎなかった。しかし恭子だけは違った。本気で再婚を考えたこともあったのだが、しかし希伊の影を心から追い出すことは出来ず、つい最近彼女と別れてここまで来たことを正直に伝えた。
「そうだったの」
希伊は龍一が若い子と別れて、そこまでして四十を過ぎた自分を求めにここまで来てくれたことに言葉を失った。そんな龍一をあの日突然彼の前から姿を消した自分を責めた。そのあとの龍一の心の喪失に思いを寄せると、今さらながら自分がとった行動を悔いた。
「俺は今日、希伊に逢いにきたんだ。それが今叶った。もし逢えなかったら恭子を失った代償は大きかったはずなんだ」
「リュウ、そろそろ私が今までのことを話す番ね。その前に改めてリュウに謝りたい」
「ん?」
希伊は言った。
「あの時はリュウの気持ちも考えず、突然いなくなって本当にごめんなさい」
龍一は何も言わず席を立った。希伊のところへ歩み寄ると中腰になって後ろから強く抱きしめた。希伊が涙目で振り返ると二人の間にある壁はすでに1ミリにも満たなかった。龍一は自然に希伊を求め、彼女もそれに応えた。
涙の味が二人の舌を刺激した。
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2017年8月24日木曜日

小説「月に雨降る」48

希伊はビールグラスの泡をじっと見つめたあと、ゆっくり顔をあげて笑った。
「してないよ。今も花の独身だし。そんな暇なかったもん。」
「そうなんだ」
「そう、そうなの」
若くして身寄りのない金沢へ単身来てから、相当な苦労をしたのに違いない。少し淋し気な表情が気になったが、それ以上詮索するのはやめた。
「だってほら、俺が夕方来た時に、だぶだぶのユニフォーム着た小さい息子さんがいたり、ご主人みたいな人が出勤してきたのも見かけたけど」
「ああ、和也ね。翔子さんの息子。あっ、翔子さんっていうのは、私とこの店の共同経営者で、昼間だけ主にキッチンで働いて、夜は男性のパートさん、渡辺さんと交代するの。和也はもうこの店に入り浸りで、私の息子同然の付き合い。パートって言っても渡辺さんは昔、隣の富山の有名ホテルにいた腕のいい料理人なのよ。そのほかにアルバイトが数名。私はだいたいランチから入って夜までがメインでやってるの。だから今店を閉めても、リュウとこうして居られるわけ」
希伊はいたずらっぽい目で付け加えた。
「ね。安心した、リュウ」
龍一は世界の中心で快哉を叫びたくなった。トンネルを抜けたらそこは雪国ではなく、小鳥がさえずり春の陽光が降り注ぐ明るい草原が広がっているような気持ちになった。でもそれを希伊に素直に悟られたくはなく、虚勢を張ってみようとしたが、すでに希伊に心を読まれているはずだった。
「あ、うん、まあね」
今度は希伊が少し眉根を寄せて龍一に訊く番だった。
「リュウはどうなの今。当然結婚して家庭もあるんでしょ。それが普通だもんね」
「結婚、してた」
「してた?」
「そう、してた。過去形さ。ずいぶん前にいろいろあって離婚した。今は希伊と同じ健全なる花の独身。ただしいわゆるバツイチ子持ちってやつ。子どもはいるよ。思春期街道まっしぐらの中学男子と、ちょっとおとなしい乙女チックな小学生女子。二人とも野球やってる。娘のほうは性格はおとなしいけど、チームではクリーンナップ打ってるんだ」
今度は龍一が希伊の表情を読み取る番。希伊の目の奥にほっと安堵の色が宿ったのを感じた。それは龍一の感情と同じ種類の色だった。互いに目の前に広がる、同じ春の草原を眺めていることを意味していた。
「へえ、そうなんだ」
希伊も一見気がないふうを装いながら、彼女の顔に少し赤味が差した。それは決して酒のせいではなく。龍一は席を立ち「もう1本ビールもらっていいかな」と言い、勝手にパントリーへ行って冷蔵ショーケースからビールを取ってくると、希伊のグラスに注ぎ、自分のそれも満たした。
龍一が席に座ると希伊が身を乗り出して言った。二人の間にあったぎこちない壁はいつの間に崩れて、堰を切ったように舌が滑らかになった。
「ねえ、リュウは今日どうしてここへ来たの?旅行?仕事?まさか偶然?」
「全然偶然なもんか、必然だよ。日本中、いや世界中、ナイアガラの滝壺から、ヒマラヤのクレバスの底まで希伊のことを探しまわったんだ」
「あはは、金沢の田舎で残念でした」
龍一は急に生真面目な顔になると言った。
「じゃあ、俺から話すね。あの日から今日までの17年間のことを。全部話すと今からまた17年くらいかかるから、原稿用紙2、3枚くらいにまとめて。そのあとは希伊の番だぜ」
希伊は右手の手のひらを頭のこめかみに持ってきて最敬礼する。
「もちろん」
話せばビール一本くらいはすぐに空になりそうだった。龍一が話し始めようとすると希伊はそれを制し、席を立ってしばらくして戻った。
「ビールの次は赤ワインでいいかな。リュウは赤は常温よりも少し冷やしたのが好きだったよね。今製氷機に入れて冷やしておいたから」
「じゃあ、凍っちゃう前に話し終えないとな」

龍一の胸の時計もあの日の日曜早朝まで逆回転していった。

2017年8月15日火曜日

小説「月に雨降る」47

龍一はホテルへチェックインしシャワーを浴び軽いつまみだけでビールを飲んだあと、希伊に言われた閉店時間を少し過ぎた頃、もう一度シェンロンを訊ねた。入り口横の看板を照らしていたスポットライトはすでに消されて、ドラゴンの彫刻は周囲の環境光だけでほんのりと浮かんでいた。
龍一は夕方希伊と一旦別れてからずっと頭の中が混乱していた。彼女は仕事が途中だったため急ぎ店に戻らなければならず、今の希伊のことを何も訊かずに別れたので、いろんな不安が胸にまとわりついていたのだった。特に店で見かけたカズヤと呼ばれていた小学生と、確信はなかったがキッチンへ消えて行った男の姿がまだ頭から消えなかった。一度疑心を持てば闇の中に暗鬼を生じさせてしまう。しかし胸の内はそんな疑心暗鬼よりも、その何倍もの期待と悦びの感情に支配されていた。ドアの把手にはこれも手作り風の米松のプレートにCLOSEDの文字。店の窓にはカーテンが引かれて中は見えず、一部の照明しか点いていないようで薄暗かったが、框扉のガラス越しに店内を覗くと、カウンターと奥のテーブル席だけに照明が点灯されて明るくなっていた。ゆっくりとドアを開けた。

「こんばんは」
龍一の声はしばらく受け取り手を探して誰もいない店内を漂っていたが、やがて空気に馴染んで消えた。トイレだろうか。カウンターの前まで進みもう一度声をかけた。
「こんばんは。希伊、いるの?」
突然後ろから人が抱きついてきた。龍一は一瞬驚いて、「うおっ」と声にならない声を漏らしたが、すぐにその背中の感触から希伊だと悟った。腹には希伊の腕が回されているのが見える。
希伊が背後から耳元に囁いてくる。
「びっくりした?リュウ」
龍一は笑いながら後ろを向こうとすると、また希伊が言った。
「お願い、もう少しこのままでいて」
「うん」
しばらく言われるままにじっとしていると、背中に感じる柔らかな丸いふくらみの向こうから、希伊の心臓の鼓動までが伝わってきそうだった。月に降る雨はやみ、暗かった太陽は少しずつ輝きを取り戻し、明るく熱くゆっくり蘇るように感じた。
ずいぶん長い間そうしていると希伊は大きくふうっと息を吐き、言った。
「良しっと。さあ、飲もっか」
「何が良しなんだよ」
「まあ、いいじゃない。それは追々ってことで」
そう言うと龍一の前に進み出て、
「あそこに簡単なつまみとお酒用意してるから」
奥のテーブル席を見ると何皿かの料理と、グラスが並んでいた。席に座るとたたみかけるように希伊が言う。
「リュウは最初はビールだよね。そのあとワインもあるよ。ワインはフルボディの赤。ウィスキーならバーボン。飲み方はオンザロックでしょ」
あっと小さく口を開けてまた続ける。
「昔の好みはそうだったけど、今はもう変わっちゃったのかな」
「よく覚えてたなあ、全く変わってないよ。変わったのは飲み過ぎた翌朝の辛さが昔の100倍くらいになったことかな」
そりゃあ、私もそうだよと、希伊は言った。
「希伊は最初から最後までビールだろ。たまに勢いでカクテルや日本酒に手を出すと、顔を真っ赤っかにしちゃって、あとが大変になる。今でもそうか?」
「そうだよ。でもあの時よりもお酒は強くなったかな。さ、飲もうよ」
そう言うとキッチン横のパントリーへ行き瓶ビールを2本持ってきた。お互いのグラスにビールを注ぎかちんと鳴らして乾杯した。龍一はこの料理旨いぞとか、古いけど良い店だねとか、希伊も今日は忙しかったよとか、そんな話でしばらく時間が過ぎた。互いに何かに遠慮していることは明らかだった。訊きたいことはたくさんあるのに。それも互いに分かり合えている二人だった。
龍一が切り出した。
「あのさ、希伊」
「なあに、リュウ」

「もちろん、結婚してる...よね?」
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2017年8月2日水曜日

小説「月に雨降る」45

龍一は決心した。希伊の元気で幸せそうな笑顔を見られただけでも十分ではないか。このまま長く彼女を見ていると、今度は自分のほうが息苦しくなってきそうだった。まだ僅かに声をかけたい思いもあったが、胸の中から無理矢理それを追い出し、衝動的に伝票をつまんで立ち上がると、帽子を目深(まぶか)にかぶり直しサングラスをかけた。大きく息を吐きレジへ向かった。語尾を伸ばしてあの少し鼻にかかった声がした。
「ありがとうございま~す」
近くにいた希伊がレジへ小走りにやって来た。龍一はうつむきながら伝票をカウンターへ置いた。希伊が値段を告げると限りなく動揺してしまい、財布から乱暴に千円札を抜き取り釣り銭トレイに置いた。希伊はレジから釣り銭を取り出しその金額を言いながら、直接龍一へ手渡すように手をのばしてきた。自然と龍一も右手を差し出したその瞬間、手と手が触れ合った。17年ぶりに龍一の体に温かい血が通ったように感じた。思わず顔を上げて喉から言葉が溢れ出そうになった。『希伊!』必死でその塊を喉の奥へ飲み込むと、無言で踵(きびす)を返し出口へと向かった。

........................

希伊はしばらく呆然と我を忘れてしまっていた。店内の喧噪が次第に遠ざかっていく。今のお客さんに釣り銭を渡そうと手が触れ合った瞬間、何かの啓示を受けたように思考が止まってしまった。あの手のぬくもり、出口へ向かおうと体を反転した時に鼻腔に届いた微かな男の匂い、そしてドアに手をかけて姿を消したその背中。希伊の心の奥底に眠っていた琴線に何かが触れたような気がした。懐かしいような狂おしいような、それでいて愛おしいような。頭の中の記憶の回転軸が最初はゆっくりとそして次第に急速に逆回転していく。
突然背後からの翔子の声でその思いが破られた。
「希伊ちゃん、お疲れさま。遅番のナベさんが来たから私今日はこれで上がるね」
翔子は年上の親友であり、この店の共同経営者でもあった。我に返った希伊は慌てて言った。
「あっ、はい、お疲れさまでした」
「何よどうしたの、そんな幽霊でも見たような顔しちゃってさ」
まだ思考の半分はさきほどの男のことに占領されていた希伊は、咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
「希伊ちゃん、マジでどっか悪いんじゃないの、大丈夫?」
「ああ、平気、平気。でも本当に幽霊を見たかも」
「えっ、やだ、ほんと」
「あはは、お疲れさまでした、翔子さん」
翔子の後ろからカズヤがくっついて来た。
「おっ、カズヤ。明日はまた試合でしょ。今度はヒット打つんだぞお」
「うん」
手をつないで店を出ようとした少年は翔子に言った。
「ねえ、ママ。きょうの晩ご飯はハンバーグがいいな」

希伊はまた先ほどの男の背中の残像に思いを寄せた。まさかそんなはずはない。自分の思い過ごしだろうかと心に問いかければ、二十代の頃一緒に暮らしたあの人の顔が浮かんできて、急激にきゅるりと胸が締めつけられる。女子中学生が初めて同級生の男子に恋をしたみたいに。
ふとレジの向こうのあの男が立っていた床に目が止まった。何か紙切れのようなものが落ちていた。拾い上げてみるとかなり古いメモ用紙のようだった。ゆっくり開いてみた。全体が黒い鉛筆の粉で覆われたその中に、くっきりと黒い文字で書かれた言葉と、その合間を縫うように微かに白く浮かんだ文字が交錯していた。

『リュウ、ほんとうにごめんね。いつかまたその日がきたら逢いたいよ』

それは紛れもなく希伊自身の筆跡だった。
心が打ち震えた、どうしようもなく。17年前の激しい雨の朝の記憶が唐突に蘇る。『その日』とはまさに今日に違いなかった。

「リュウ!」

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2017年7月29日土曜日

小説「月に雨降る」44

「いらっしゃいませ」
女子高生のアルバイトだろうか、十代らしき女の子が龍一をテーブルに案内してくれた。店内はやはり古かったがメンテナンスが行き届いているようで、不快な感じはなくその古さがむしろ好感を抱かせた。店主のこの店に対する愛情が感じられる、そんな空気感があった。カウンター席が6席にテーブル席は十数卓、土曜午後夕方のアイドルタイムにしては席は埋まっており、そこそこ繁盛しているみたいだった。客層も家族連れからサラリーマン風、大学生のカップルなど様々だった。静かすぎずうるさくもなく、店内には心地よい適度な喧噪が漂っていた。その喧噪の中に混じってさりげなく店内に流れる、エルトンジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」のBGMが龍一の記憶に微かに触れた。恵比寿の真壁の店でよくかかっていた曲だった。店内を見渡し目を引いたのは、かなり年配の老人が独りで文庫本を読んでいた姿だった。老人が独りで本を読める店に悪い店はない。龍一がインテリアデザイナーとして自分なりに作った基準、良い店かどうかを判断するひとつのバロメーターだった。しかし昔希伊と来た時の印象とはまるで違っていた。あの時は若い店員の応対がぞんざいで少し鼻についた覚えがあったし、今の床は表情の豊かな上質のテラコッタタイルが貼ってあるが、当時のフローリングはがさがさで床の入り隅にはほこりが溜まって、定期的なメンテナンスがされていないのは明白だった。

龍一はアルバイトの女の子を呼んでアイスコーヒーを頼んだ。明るくはきはきした声でカウンターの奥へオーダーを通す。カウンターの向こうはかすかに見える程度だったが、オープンキッチンになっているようだった。注文を受けて声が返って来た。
「はあ~い」
龍一の腕に鳥肌が立った。
まさか。
忘れもしない少し鼻にかかったような独特の懐かしい声。二人で暮らした若かったころ、何千回も何万回も聞いていたあの声だった。呆然としながら惚(ほお)けたように固まってしまう龍一。しばらくしてアイスコーヒーをトレンチに載せて、その彼女は龍一のテーブルにやって来た。あの懐かしい声で言った。
「お待たせしました」
なぜか咄嗟に顔を伏せて下を向いてしまった。龍一の視界には彼女の小さなスニーカーしか目に入らなかった。キャップを被っていた龍一の顔は相手には見えないはずだった。視界からスニーカーが去って行く。頃合いをみてゆっくり顔をあげた。カウンターのレジに立つその人はいた。
彼女は間違いなく希伊だった。

今でも軽く茶色に染めたショートカットの髪をさらさらと揺らせながら、にこやかに客と応対している。ストライプのゆったりとしたTシャツの上からでもそれと分かるほどの、豊かな稜線も健在だった。時に小首をかしげ眉間に皺を寄せて、時に笑いながら仕事をしている彼女がそこにいた。年齢は龍一と同じだから、それなりの歳を重ねて来た痕跡は明らかだったが、むしろ若いころよりも成熟したひとりの女としての魅力が増しているように思えた。龍一の記憶の中の希伊と、今ここにある現実の映像がぴたりと合致した瞬間だった。

しかしどうしても希伊に声をかけることが出来ずにいた龍一だった。そこへ突然ドアがあいて小学生の男の子が入って来た。背中に背負ったリュックに金属バットを差して。希伊とアルバイトの女の子がにっこりして同時に言った。
「お帰り、カズヤ」
更に希伊は男の子の帽子を取って乱暴に頭をなでると、中腰になって少年と目線を同じにしながら笑って声をかける。
「今日の試合はどうだった。ヒット打てたかな、カズヤ。」少年は「あ」とか、「うん」とかうつむきながらもごもご反応していたが、希伊はすかさず笑いながら言う。
「ははん、さては打てなかったんだろ。よおし、次がんばれよお、ドンマイ」
少年は勝手知ったる我が家のようにキッチンの奥へ走っていった。オープンキッチンにはもう一人のスタッフだろうか、中年の女性が働いているようだった。

普通ならば母と息子の微笑ましい光景だったが、龍一の目には失望の入り交じった光景に映った。やはり希伊は結婚し子どもをもうけて幸せに暮らしていたんだ。半ば予想していたこととはいえ、それを現実に目の当たりに確認してしまうと急速に冷静になっていった。俺は何をしにここへ来たのだろう。希伊に声をかけて互いに驚き、昔話に花が咲き、じゃあ元気でねと、そして俺はひとり東京へ帰る。希伊にしたところで、幸せな家庭を築いているところへ昔の男がのこのこやって来ても困惑するかもしれない。ましてや彼女は一方的に蒸発したようなものだから、俺に対して少なからず負い目があるはずだった。俺が現れたことで彼女はますます自分を責めはしないか。いやそれ以前に、俺のことなどもうとうに忘れているかもしれない。全ては自分の独りよがりで金沢まで来た。相手の気持ちをおまえは考えたのかと、もう一人の俺が詰問する。龍一は何よりも希伊のこの幸せそうな笑顔を壊すようなことはしたくなかった。
しばらくすると店に五十がらみの男が入ってきて、そのままキッチンへまっすぐ向かって行った。希伊はにっこりして「おはよう、お疲れさま」と言って彼のために通路を空けた。飲食業界では昼でも夜でも「おはよう」という挨拶をするのが慣例だ。彼が夫なのだろうか。混乱する頭の中で龍一はコーヒーを一気に飲み干した。苦い味が喉を通過した。
もう希伊を取り戻すことは出来ないんだ。

このまま帰ろうか。
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2017年7月20日木曜日

小説「月に雨降る」43

金沢駅に着くといつのまに小雨に変わり、空は濃度の薄い明るいグレイになっていた。龍一は近くの花屋で花を買い求め、駅前からタクシーに乗りまっすぐ野田山へ向かった。探偵の黒坂から聞いていた希伊の両親の墓があるはずだった。手がかりといえばそれしかない。今更ながら無謀な金沢行だと言わざるをえなかった。車窓から見えるその墓地は黒坂から聞いていたイメージとはほど遠く、想像以上に広大な墓苑だった。管理事務所で「氷室」姓の墓を訊いて書類を書き、区画番号を頼りに迷いながら数十分も歩いてそこにたどり着いた。黒坂の話によれば希伊は、管理事務所のおばさんに裏ぶれてしまった両親の墓をちゃんと建てると約束したらしい。龍一の目の前にあるその墓は黒御影で出来た立派な墓石だった。花を添えて手を合わせた。右側面を見ると墓を建立(こんりゅう)した者を示す「建之」(これをたつ)の表記はなかったが、希伊に違いないと思った。更に裏に回ってみると没年の表記はあったものの、月日(つきひ)は刻印されていない。しかし伊三郎と希沙子、希伊の両親の名前が二行仲良く並んでいた。二人の縦書きに彫られた名前を横に読むと確かに「希伊」となった。龍一の心は静かに波打った。
帰り際にもう一度管理事務所に寄り、この墓のことで何か知っている人はいないかと訊ねてみる。意外にも事務の一人の若い青年が応対に出てくれた。
「昔私の母がここに勤務していたんですけど、母の話によるとこの氷室家のお墓には、毎年必ず小柄で可愛らしい娘さんがやって来て、たまに母とお茶を飲む仲だったらしいです」
龍一は驚いた。彼の母とは黒坂から聞いていたあの管理のおばさんに違いない。龍一ははやる心を抑えて訊いた。
「その女性は今どこにいるか知りませんか」
「詳しいことは知りませんが、今は兼六園の近くでカフェをやっているらしいですよ」
「そのカフェの店名は知りませんか」
「さあ、そこまでは。母はもう他界してますんで。お力になれずすみません」
青年は申し訳なさそうに頭をうなだれた。そのあと小首をかしげながらふと何かを思い出したように言った。
「ああ、確か赤い三角屋根の古い建物だと聞いたことはありますが」
龍一の頭の中で昔の記憶がフラッシュバックした。希伊と同棲していた若い頃、二人で金沢に遊びに来た時に寄った兼六園近くのカフェが赤い屋根だったはずだ。龍一はアイスコーヒーを飲む時のこだわりを希伊に話したことを思い出した。そのあと宿に戻って熱く長い夜を過ごしたことも。記憶の海のカオスは逆回転してくっきりと頭に蘇ってきた。赤い三角屋根のカフェなんて、そうそう何軒もあるものではない。
「貴重なお話ありがとうございました」
管理所を出てすぐにポケットからiPhoneを抜いてMapをタップすると、自分のいる野田山のエリアが映し出された。兼六園当たりに見当をつけて画像を移動させ、最後に鳥瞰で見られる航空写真に切り替えた。一見しただけではとても見つからない。今度はSiriを呼び出して「兼六園、赤い屋根、カフェ」と彼女に話しかけてみる。表示はされるが全く別の市の店舗だった。とにかく記憶を頼りに兼六園方面へ向かってみよう。
墓苑を出た龍一はタクシーをつかまえて、兼六園近くのほとんど忘れかけたそのカフェのおおまかな場所を運転手に伝えた。赤い三角屋根だと言うことも付け加えた。白髪まじりのかなり年配の運転手はその場所を聞くと「ああ、あこね。香林坊のあたり」と言って金沢駅方向へハンドルを切った。
「えっ、あそこねって、運転手さん知ってるんですか」
「入ったことはないけど、評判の店らしいですちゃ」
「店の名前は分かりますか」
「う~ん。何度もその店の前を通ってるんだけどねえ。確かカタカナで、シェン...やっとかっと言ったかねえ」
「シェン...なんとか、ですか」
野田山から20分近く走ると記憶の片隅にあった風景が徐々に現れた。ルービックキューブが終盤にさしかかったように、記憶の断片がカシャリカシャリと噛み合っていく。香林坊の大きな通りから一本奥へ入った路面にその店があった。車を降りた龍一は店の前に立ちつぶやいた。
「そうだ。ここだ。あの時の店だ」
見上げると赤い屋根の風合いはここ数年前に改装したような感じで、外壁も居抜きで手に入れた店を、何度も塗装し直したような痕跡が見られた。以前来た時も古い店だと感じたが、あれから更に17年以上経っている。相当古い建物だった。
店の入り口のドア横には、50センチ四方のオークの無垢材にドラゴンの彫刻が施されている看板があった。お世辞にも上手いとは言えないが味のある彫刻だった。おそらく素人が作ったであろうその看板の彫り込みの下には店名が描かれてあった。

『シェンロンの背中』Shenlong

シェンロン?漫画のドラゴンボールみたいだ。妙な店名だなと思いつつ、心臓の鼓動の高鳴りを抑えて龍一はドアの把手に手をかけた。
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2017年7月11日火曜日

小説「月に雨降る」42

2017年の夏、その日の土曜は朝から雨模様だった。
淡いグレーと濃い灰色の雲たちが、互いにその領域を固守しようとせめぎ合っているような空だった。わずかに濃いほうの雲の軍勢が優位に見えた。
家を出る前にiPhoneの電話帳から『城崎かな江』を探し出し番号をタップした。かな江は龍一が希伊を探しに実家のある自由が丘へ行った時に、親身になって応対してくれた家政婦だった。育ての母親と言っても過言ではない。その後幾度か希伊から連絡がなかったかどうかなど電話でのやり取りをしたが、いつのまにか疎遠になってしまったのだった。しかしあのとき、まるで不細工な龍のようにも見える、荒縄で作られた蛇が掛かった鳥居のある奥沢神社の階段で約束したのは、希伊の消息が分かったら必ず連絡するということだった。まだ会える保証もなかったが龍一は電話してみることにした。番号を変えていなければいいのだが。
「あらあら、久しぶりですねえ神島さん」
開口一番かな江はそう言ってきた。相変わらず明るく懐かしい声だった。まだ自分のことは忘れていなかったようで安心した。
「城崎さん、ご無沙汰してます、神島です」
かな江の話によると龍一が訊ねてきてから半年後に永山の家政婦は辞めたのだった。その後縁があって結婚し、晩婚ながら一女をもうけたのだそうだ。今は幸せに暮らしているとのことだった。龍一も簡単に今の自分の環境を話して聞かせた。ひとしきり話をしたあとかな江が言った。
「それで神島さん。お電話をいただいたということは、まさか希伊ちゃんが見つかったの」
「いえ。まだ見つかりません。今日これから見つけに行くんです、金沢へ。砂漠の中の一本の針を探しに行くようなものですけど。その前に育ての母だったかな江さんに、お知らせだけをと思って」
「あれからもう十何年も経っているというのにまあ、そうなの。それは本当にありがとうございます。私もあれ以来希伊ちゃんのことは折に触れてずっと思ってました」
電話口の向こうにはしばらく沈黙が支配した。かな江の遠くの景色を見るような姿が容易に想像出来た。龍一はまた連絡しますと言って電話を切った。

子どもたちには一泊で金沢へ出張だと言ってある。まだ小学生の娘は少年野球チームの友人大乗寺の家に泊めてもらうことになっていた。希伊との事情を知っている息子のほうは金沢と聞いてぴんときたようだ。神妙な顔をして「グッドラック、お父さん」と言って親指を立てながら片目をつぶってみせた。
「欧米か。おまえいつからアメリカ人になったんだよ」
と言って龍一は笑いながら軽く頭をたたくポーズをしてみせる。玄関に行き靴をはいているとサチコが音もなく背後に来たのがわかった。振り向くと、立ったまま口をわずかに開けたのだがいつもの「みゃあ」とは言わずに、赤い口腔を開けて見せるばかりだった。目は龍一を見て口は何度もぱくぱく開けるのだがやはり声を発することが出来なかった。声にはならなかったがまるで「必ず希伊と再会してよ」と言ってるように思えた。しばらくすると四本脚で立っていたサチコは、不意に脚から崩れるように床に横になった。それは自分の意志に反して地球の重力に逆らえずに、横にならざるを得ない行為に見えた。龍一はいよいよ近いうちにその時が来ることを悟った。純真な娘はサチコを抱きあげてもう涙目になっていた。サチコの頭を撫でたあと子どもたちにはもしもの場合を覚悟をしておくように言い置き、後ろ髪を引かれる思いで家をあとにした。

渋谷から乗り込んだ山手線内回りの車窓に広がる街並を見ると、とうとう厚く暗い灰色の雲が空全体を占領し、さらさらと雨を降らせ始めた。東京駅へ出た。改札を抜けて北陸新幹線に乗り込んだ。
龍一は車中の人となり発車のベルとともにシートに深く沈み来むと、あっという間に眠りに落ちた。
ふと目が覚めると田園風景が遠くにゆっくり移動するのが見え、視界の手前では緑の樹々がかなりの速度で龍一の背後に飛び去っていくのが見えた。ここは何県だろう。どれだけ寝ていたのかわからなかったが、空模様は東京を出た時よりも雨脚が強くなっているのがはっきり理解できた。次々と変わる光景の中で、突然大きな轟音とともに一瞬で窓の外が真っ黒の世界に様変わりした。トンネルに入ったらしい。窓ガラスは黒い鏡となり、不意に龍一の顔がそこに現れた。龍一は図らずもうろたえてしまった。あの頃に比べて歳をとった自分がそこにいた。年長の者に言わせれば四十代はまだまだ若いと言うだろうし、ひと昔前に比べればアラフォーなんて中年の部類にも入らない、まだまだ自分は若いとも思っていた。それでもやはりそれなりに重ねてきた年輪を、顔のそこかしこに認めざるを得なかった。じっと覗き込んでみると相手も龍一を見つめ返す。いったい誰だこの男は。この男は今何を目的にどこへ行こうとしているんだ。
「俺はいったい誰なんだ」

と自問する龍一だった。そしてまた突然車内が静かになり、窓の外にのどかな田園風景が現出する。相変わらず無数の雨粒が激しくガラス窓に当たっては、つつうっと、真横に軌跡を残しながら後方に去っていく。そしてまた十数秒ののちに暗いトンネルに入り、黒い窓鏡に己の虚像が浮かぶ。鏡の向こうのその男はじっと龍一を見つめ返しているのだった。
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2017年7月4日火曜日

小説「月に雨降る」41

店を出たあとよほど恵比寿に戻って真壁の店に行こうかと考えたが、今日はやめておこうと思い、まっすぐ帰宅することにした。それでも恭子のことを思うと胸に刺さった棘は簡単に取れそうもなく、もっと強い酒が飲みたかった。酒で胸の痛みが沈静化するはずもないことは分かっていたが、地元の駅前のスーパーがまだ開いていたので寄ってみた。いつも購入する国産の安ウィスキーには食指が動かず、思い切ってワイルドターキーを買い物かごへ放り込んだ。自宅は駅から歩いて10分ほどの中古分譲マンションの上層階にあった。ローンの残高はまだ気が遠くなるほどあった。希伊と過ごした中野坂上のアパートはあれからほどなくして引き払い、田園都市線の桜新町へ引っ越し結婚後もそこで暮らしていたが、子どもができたのを機に同じ路線のもう少し郊外のここへ越して来たのだった。あれ以来捨て猫だったサチコも神島家の家族としてずっと龍一とともに過ごしてきた。龍一は帰宅するとまず最初にサチコの喉を撫でてぐるぐる鳴らすのが日課となっていた。時には抱き上げて頰ずりしたり、または足の肉球の匂いをかいでみたり、一番にサチコに接するのだった。希伊の分身と思い飼い始めたサチコだったが、子猫だった彼女も今は老猫となり最近の様子をみると、近い将来やってくるであろう、生の終焉の予感に胸が締めつけられる思いだった。
そんなサチコが玄関口で龍一を出迎えた。「ただいま、サチコ」と言って右手で喉をさすり同時に左手で頭を撫でると、目を細め顎を突き出してすぐにぐるぐると喉を鳴らしはじめる。しばらくして頭をぽんぽんしてやるとゆっくり娘のベッドへ戻って行った。娘の部屋はサチコが夜中でも自由に出入り出来るように扉は薄く開けてあるのだが、灯は消えて暗かった。娘はもう寝ているようだ。息子の部屋のドアのすき間からは薄明かりが漏れているが、間違いなく勉強ではなく彼女とLINEをしているかスマホゲームをしてるはずだ。自分も中学時代は3年の部活が終わるまではまともな受験勉強などした記憶はなかった。ましてやまだ2年のあいつは今が一番楽しい時期なのかもしれない。

軽くシャワーで汗を流したあと冷蔵庫から350mlのビールを取り出し一気に飲んだ。まだ真夏のように汗をかくような季節ではなかったが、炭酸が喉を刺激しながら下降し腑に落ちる感覚が心地よかった。すぐに空にすると先ほど購入したターキーの13年物をスーパーの袋から取り出す。ロックグラスに氷を入れ、とぷとぷとグラス半分まで注いだ。ターキー独特の香りが龍一の鼻腔をつく。グラスを目の高さまで持ち上げてその奥行きを見てみる。リビングの照明の光を受けて、琥珀の液体はゆらゆらと氷のすき間を漂っていた。宇宙が生まれる前のカオスの渦巻きのようだ。或いは神様がこれからどうやって宇宙を形成したものか迷っているみたいに。龍一はそれを見ているうちに、つい数時間前の恭子とのことに思いが及んだ。心臓がきゅっと音を立てて締め上げられたような気がした。食卓に頭をつけて目を閉じた。しばらくそうしていたが、やっと顔を上げてひと口喉に流し込むと今度は希伊の映像が浮かんできた。あの日の朝の記憶が蘇ってきた。龍一の頭の中でもうすでに何度この映像がリプレイされたことだろうか。希伊は書き置きを残して雨の朝に忽然(こつぜん)と消えてしまった。ふとあの書き置きのことが気になった。確か今でもどこかに保管していたはずだ。うしろから背中を針で突つかれたように立上がり、収納家具の一番下の抽斗(ひきだし)をあけ、その奥からモンブランの万年筆の空箱を取り出す。
「あった」
龍一はその17年前にしまい込んだ黄変したメモ用紙を取り出し、ゆっくりと丁寧に広げてみた。博物館の学芸員が古文書のページをめくるみたいに。そこには懐かしい希伊の筆跡が踊っていた。
『リュウ、ほんとうにごめんね。いつかまたその日がきたら逢いたいよ』
じっと見ているとちいさなメモ用紙の表面に僅かな窪みを発見した。複雑にうねるようなミミズ腫れのような窪みだった。あの時も何か違和感を感じたのを想い出した。光にかざしてみる。はっと閃いた龍一は、目の前の抽斗から仕事で使う2Bの鉛筆とカッターナイフを取り出した。鉛筆の先を何度か削り芯だけを長く露出させる。今度はカッターの刃を立てて芯の部分だけを細かく削り粉末状にフローリングの床に落としていった。中指でその黒い粉末をすくい取るとメモ用紙に軽くこすりつけていく。全体が鉛筆の粉で黒く染まったところで余分な粉をはたいて落とした。手にした紙には希伊が書いた黒い文字とは別の文字が、うっすらと反転して白く浮かんでいた。ジェイムズ・ボンドだったかケーリー・グラントだったかは忘れたが、若い頃昔のサスペンス映画で見た手法だった。メモ帳に強い筆跡で一度書いてから思い直し破り捨て、2枚目にまた文字を書く。その際に2枚目には1枚目に書いた筆圧が微かに窪みとして残されているのだった。
龍一はその紙面を凝視して照明の光をいろんな角度から当ててみた。解読を試みた。おそらく希伊は1枚目を破棄して2枚目だけを龍一に残したに違いなかった。目を細めて見てみるとそこには希伊の筆跡がおぼろに浮かんでいた。
『私は金沢に行きます。いつかまたリュウと逢える日を待ってます。こんな意気地(いくじ)なしの私でごめんなさい』
龍一はじっとその字面を見つめたあと、たたみ直して財布にしまい込んだ。うす暗いリビングで龍一ははっきりと声に出して言った。
「金沢へ行こう」

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2017年6月22日木曜日

小説「月に雨降る」40

久々の、小説「月に雨降る」です。
あまりに久々すぎるので前話を失念した方を鑑みて、前回の話の最後部分を再度掲載。

小説「月に雨降る」39(再掲載)

.............
図星だった。彼女なりに薄々何かを感じ取っていたのだろうか。やはり以心伝心だった。良くも悪くも。
「なんで分かったの」
「最近のリュウさんを見れば分かるわよ。これだけの付き合いだもの。今日なんかいつもだったらこんな高いお店なんか来ないし。しかもその話の内容は、たぶん...」
たぶんと言ったきり恭子は黙りこくってしまい、下を向いて固まってしまったように見えた。
「恭子。ごめん」
ゆっくり顔を上げた彼女はまっすぐ龍一の目を見据えた。
「ごめんって、何?はっきり言ってもらったほうがいいわ。このところずっと、毎晩眠れなくて、リュウさん変だから。私と話をしていても私の後ろにいる他の誰かに向かってしゃべっているみたいで。心ここにあらずって感じで。私はね、このままずっとリュウさんとは、ずっと...ずっと...このままでいたいと」
恭子の目からみるみるうちに涙が溢れてきた。喉を振り絞るように言った。

「どうして?私じゃだめなの?」

ここから、小説「月に雨降る」40

「だめなもんか」
龍一はグラスに手を伸ばしひとくち飲んだ。食道を熱く焦がしながらやがて胃袋の中でぽっと熱いものが広がった。
「恭子、話を聞いて欲しい。俺は今までもこれからも恭子のことを大事に思っているよ、人としても女としても。遊びでつき合ってきたわけじゃないことは恭子にも分かってもらえていると思う。普通なら多分この先の将来、再婚のことも考えていたはずだった。いや、実際年齢差はあるけれど、恭子さえ良ければと、真剣に考えたこともあった。俺のうぬぼれとか思い過ごしでなければ、恭子もそれを拒否することはないだろうとも思っていたんだ」
恭子はハンカチを目に当てて、「うん」と言いながら小さくこくんと頷いた。そんな健気(けなげ)な表情を見ていると龍一は一瞬気持ちが揺らいだ。すまない、俺は今からこの子をひどい目に合わせることになるんだ。俺はどうしようもない悪い男だ。しかしこれ以上期待を持たせるような物言いはますます彼女を苦しめることになる。
「ほかに好きなひとが出来たの?」
「違うんだ。昔、他に好きな人がいたんだ」
小首をかしげたきれいな顔立ちの女に言った。
「恭子。すまない、別れてほしい」

このところ探偵の黒坂や息子にも話した希伊とのことを、恭子にはなるべく淡々と話した。感情を込めて話したのでは恭子を傷つけることになると思ったからだった。こんな話をするのはこれで最後だ。人が聞けばこんな馬鹿げた話はないだろう。四十過ぎのバツイチ子持ちの中年親父が、若くて美人の恋人を袖にして、全く当てのない昔の女を捜しに行くなんて。行ったところで会えるかどうかすら分からない、ましてや相手は今既婚者かもしれないのだった。また辛いことだったが、若い恭子には年齢に相応しい違う男が、これからいくらでも選べるはずだ。
龍一の長い話をテーブルの一点を見つめたまま黙って聞いていた恭子が口を開いた。
「男の人って昔の女が忘れられないって言うけど、リュウさんもそうなのね」
「うん、それは正解だけど、俺の場合はうまく言えないけど、そんなんじゃなく特別なんだ。たぶん普通の男ならこんな選択肢はありえないだろう」
恭子は目を赤く腫らし、天井を見上げて「ふう」とひとつため息をついて、長いあいだ頑(かたくな)に沈黙を守っていた。その間龍一は眉間に皺を寄せてじっと恭子を見ていた。恭子はワインを少し舐めて、そのグラスの縁の口紅を親指でしゅっと拭ってからやっと口を開いた。
「そこまでリュウさんが思い込んでいるのならわかりました。でも私、待ってるから。もし金沢へ行ってだめだったら、私、待ってるから。今別れる必要なんてないじゃない。私、待ってるもん」
龍一にはそこが肝要なところだった。
「そう言ってくれることはとても嬉しいよ。でもさ、それでは俺が俺を許せないんだ」
「俺が俺を許せないって、どういうこと?」
「自分から勝手なことを言って昔の女を捜しに行って、会えなかったらのこのこ帰ってきてまた元の鞘に戻る。恭子の存在を保険の担保に取った形でね。あっちが駄目でもここに帰ればまた温室に戻れる。それは卑怯だと思うんだ。そんな気持ちで行きたくないし、何より恭子に対しても希伊に対しても失礼なことだと思う。だからきっぱりとけじめをつけたうえで、白紙の状態で行きたいんだ。少しかっこ良く言えば退路を断った上で前に進みたい。もしそのまま終わって何もなく東京に戻ったとしても、そこには恭子という素敵な恋人は、もういてはならないんだ、俺にとっては」
みるみるうちに恭子の大きな瞳から、大粒の涙がぽろぽろと転がるようにこぼれ落ちた。いくつもの熱い液体の粒がワイングラスに落ちて行くのを呆然と俯瞰していた。嗚咽をこらえる恭子にかける言葉を龍一は知らなかった。すまない、申し訳ない、ごめんよ...そんなお仕着せの言葉はますます彼女を苦しめることだろう。今の龍一には黙っていることしか出来なかった。
しばらくすると恭子はいきなり立ち上がった。反射的に龍一も席を立った。
「リュウさん」
恭子が最後の言葉を探しているのは龍一にも分かった。たぶんこれが彼女との最後の会話になるのだ。しかし龍一の推量は当たらなかった。恭子は全く無言で龍一に抱きついてきた。恭子の胸が小刻みに打ち震えているのが伝わったきた。強く抱きしめると互いの頬が触れあい、そしてふたつの涙の川が僅かな頬と頬のすき間で合流し一本の川になり下へ流れ落ちた。
どれだけそうしていたのだろう。恭子はゆっくり体を離すとじっと龍一の目を見つめた。龍一はビデオをスローモーション再生するように、恭子の唇に自分のそれを重ねた。彼女の舌はそれに深く強く親密に反応した。
「私からさよならは言いたくない。でもやっぱり、これでさよならなんだろうね」
恭子はそれ以上何も言わずバッグを取ると個室を静かに出て行った。

すまないという深謝の念と、恭子の将来のためにはこれでいいんだという思いと、今でも残る微かな未練の残滓(ざんし)が輻輳(ふくそう)的に絡みあって、龍一の頭の中は混乱していた。
恭子の涙が含まれたワイングラスをじっと見つめながら、龍一はいつまでも誰もいない個室で佇んでいた。

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2017年5月31日水曜日

「新しい仲間がふえました」

よもやの3夜連続のブログアップ。こんな知的重労働は久しぶりなんである。その昔イギリスの囚人たちが船底に閉じ込められて、遥か遠くの新大陸オーストラリアまで船をこぎ続かされたような重労働である。佳境に入って来た小説「月に雨降る」は、連綿と水面下であのあとの構想を練っている。メモで走り書き程度だけれど、書いているうちにあらかじめ用意された頭の中のストーリーから勝手に違う方向に枝分かれして行き、するすると細部が造形されていく感覚は気持ちのいいものだ。頭の中で考えていることが1,2秒後には紙面に文字となって形成されてゆく。文字を書きながらその1.2秒後には頭が次のストーリーの言葉を放流している。それをまたペンが勝手にすくい取り紙面に文字を綴ってゆく。この繰り返しが長く続けば続くほど快感となって心地よい疲労感が残る...。
なんてね。そんなことは滅多にあるものではない。このブログもキーボードを叩く時間よりも思考する時間のほうがどれだけ長いことか。
前置きが長くなってしまうのが「晴耕雨読」の真骨頂とはいえ、そろそろ本題へ。

先週の土曜はQueensの練習試合、VS宮崎台バーズBであった。



以前のブログにも書いたけれど、この日は前の週に続き宮前各地で運動会があり、Queensでも何人かが不参加であった。
主審は連盟審判部でもあるTohko父のUeshimaさん。

バーズB主将くんの打撃フォームはすでにAクラスのスラッガー級であった。
以下写真にて粛々と掲載。

バッテリーはSachikoとHinata。Hinataのアンダーアーマーのスパイクがカッコいい。スパイク裏のヤマの減り具合から判断しておニューだろうか。(※おニュー=今となっては死語)

バーズB監督はKawataさん。コント赤信号のラサール石井に似ていると言えば本人は怒るだろうか。攻守交代の試合途中で監督と談笑する。


バーズショートは投手から途中交代で守備についたHinata弟のKaiくん。面構えがオヤジそっくりで、野球小僧を絵に描いたような子なんである。ちなみにそのオヤジは野球小僧がそのままオトナになったようなYoshikawaさん。

投手リレーでHinataにスイッチ。Qのスコアラーはバーズ母体のHinata母。Qの正スコアラーKuu母はじめ、各チームの女性スコアラーはみな美人さんが多い。「女性スコアラー、美人率高い説」で、かのダウンタウンのTV番組に企画を持ち込みたいくらいだ。


試合は5回表終了時で7:0のバーズ圧勝ペース。しかしその裏QもSachikoの二塁打を突破口に3点を挙げる。じわり肉迫なんである。


しばし水筒で喉を潤す。ぐびぐび...「ぷは〜っ、うんめえ〜」

6回裏にはQがまたしてもSachikoの長距離砲の連打などで2点を追加し猛追。

Sohma会長は途中から観戦。先週のQの公式戦敗退に厳しい評論を下す。筆者にもQueens愛ゆえの持論を展開。Kuriharaさんは帽子とポロシャツがともにadidasブランド。筆者心の中で「コーディネートはこうでねえと」とつぶやいてみる。

試合はなんと最終回表に8:5でバーズ優勢だったが、裏のQの攻撃では相手失策やMikkuの安打などで4点奪取し逆転サヨナラなんであった。

試合後バーズ女性スコアラーとQのYoshikawaスコアラーが互いに答えあわせ。バーズもやはり素敵な美人さんスコアラーなんであった。

お昼なんであった。次に第四を使用するバーズAがやってきた。Bのランチテーブルにちゃっかり座ってHinataや男子と一緒に弁当を頬張るAkane。実に微笑ましくも逞しい女子である。

更に朗報。Qに新しい仲間が続々入部の知らせ。新しい仲間が増えることは宮前少年野球連盟にとってもとても喜ばしいことである。Qやフレンズの連絡網で「新しい仲間がふえました」とiPhoneが鳴るたびに嬉しく思ってしまう筆者。Qでは来週アリコからまた二人の女子が体験にくるとのこと。
フレンズでも最近ハーフの子が入部した。QueensではSachikoやHasumiがいる。
10年前でもハーフの子は多少いたけれど、今の時代それは珍しくなくなった。各チームにも数の大小はともかく在籍していることだろう。
筆者的にはとても喜ばしいことで、素敵な傾向であると思う今日この頃なんであった。
.............

歯を磨いてさあ寝るぞという時にふと思い出した。
いやはや今日5月30日は筆者の誕生日であった。
年齢を重ねるにつれ、己の誕生日など失念してしまうんである。人によって個人差はあるものの、ほとんどなんの感慨もない。
うーむ、俺もとうとう39歳になってしまったか。来年は40ではないか。
なんつって....。サバを読むにも休み休み言えってもんだ。
年齢詐称と虚偽申告罪にて当局から逮捕されることは、火を見るよりも明らかである(^-^)

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