2017年8月2日水曜日

小説「月に雨降る」45

龍一は決心した。希伊の元気で幸せそうな笑顔を見られただけでも十分ではないか。このまま長く彼女を見ていると、今度は自分のほうが息苦しくなってきそうだった。まだ僅かに声をかけたい思いもあったが、胸の中から無理矢理それを追い出し、衝動的に伝票をつまんで立ち上がると、帽子を目深(まぶか)にかぶり直しサングラスをかけた。大きく息を吐きレジへ向かった。語尾を伸ばしてあの少し鼻にかかった声がした。
「ありがとうございま~す」
近くにいた希伊がレジへ小走りにやって来た。龍一はうつむきながら伝票をカウンターへ置いた。希伊が値段を告げると限りなく動揺してしまい、財布から乱暴に千円札を抜き取り釣り銭トレイに置いた。希伊はレジから釣り銭を取り出しその金額を言いながら、直接龍一へ手渡すように手をのばしてきた。自然と龍一も右手を差し出したその瞬間、手と手が触れ合った。17年ぶりに龍一の体に温かい血が通ったように感じた。思わず顔を上げて喉から言葉が溢れ出そうになった。『希伊!』必死でその塊を喉の奥へ飲み込むと、無言で踵(きびす)を返し出口へと向かった。

........................

希伊はしばらく呆然と我を忘れてしまっていた。店内の喧噪が次第に遠ざかっていく。今のお客さんに釣り銭を渡そうと手が触れ合った瞬間、何かの啓示を受けたように思考が止まってしまった。あの手のぬくもり、出口へ向かおうと体を反転した時に鼻腔に届いた微かな男の匂い、そしてドアに手をかけて姿を消したその背中。希伊の心の奥底に眠っていた琴線に何かが触れたような気がした。懐かしいような狂おしいような、それでいて愛おしいような。頭の中の記憶の回転軸が最初はゆっくりとそして次第に急速に逆回転していく。
突然背後からの翔子の声でその思いが破られた。
「希伊ちゃん、お疲れさま。遅番のナベさんが来たから私今日はこれで上がるね」
翔子は年上の親友であり、この店の共同経営者でもあった。我に返った希伊は慌てて言った。
「あっ、はい、お疲れさまでした」
「何よどうしたの、そんな幽霊でも見たような顔しちゃってさ」
まだ思考の半分はさきほどの男のことに占領されていた希伊は、咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
「希伊ちゃん、マジでどっか悪いんじゃないの、大丈夫?」
「ああ、平気、平気。でも本当に幽霊を見たかも」
「えっ、やだ、ほんと」
「あはは、お疲れさまでした、翔子さん」
翔子の後ろからカズヤがくっついて来た。
「おっ、カズヤ。明日はまた試合でしょ。今度はヒット打つんだぞお」
「うん」
手をつないで店を出ようとした少年は翔子に言った。
「ねえ、ママ。きょうの晩ご飯はハンバーグがいいな」

希伊はまた先ほどの男の背中の残像に思いを寄せた。まさかそんなはずはない。自分の思い過ごしだろうかと心に問いかければ、二十代の頃一緒に暮らしたあの人の顔が浮かんできて、急激にきゅるりと胸が締めつけられる。女子中学生が初めて同級生の男子に恋をしたみたいに。
ふとレジの向こうのあの男が立っていた床に目が止まった。何か紙切れのようなものが落ちていた。拾い上げてみるとかなり古いメモ用紙のようだった。ゆっくり開いてみた。全体が黒い鉛筆の粉で覆われたその中に、くっきりと黒い文字で書かれた言葉と、その合間を縫うように微かに白く浮かんだ文字が交錯していた。

『リュウ、ほんとうにごめんね。いつかまたその日がきたら逢いたいよ』

それは紛れもなく希伊自身の筆跡だった。
心が打ち震えた、どうしようもなく。17年前の激しい雨の朝の記憶が唐突に蘇る。『その日』とはまさに今日に違いなかった。

「リュウ!」

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2 件のコメント:

  1. じらさないで~。
    今読んでる他の本が、まったく先に進めなくなってます。

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  2. 匿名さん コメントありがとうございます。

    一週間に一回のアップを目標でやってます。すでに2、3回分先を書き終わってはいますが。
    まれに二回アップすることもあるかもしれませんけど。

    じらさないで〜...と言われると、ますますじらしたくなるのが、男の常(^-^)

    今読んでる他の本をじっくり読んで下さい。

    読んで下さって本当にありがとうございます。

    返信削除