2017年9月14日木曜日

小説「月に雨降る」49

シェンロンのほの暗いテーブル席で17年ぶりに再会した希伊と差し向かいながら、龍一はゆっくりとあれからの自分の来し方を話し始めた。

雨の日曜の朝、希伊が出て行ったことに気づいた龍一がいかにして街中を探しまわったか。妙な老人に声をかけられたこと、そして捨て猫のサチコを拾って連れ帰ったこと。近くの動物クリニックの女性獣医、小鳥遊(たかなし)由美の話に至ったときは「あの美人先生、私知ってるよ。元気かな」と希伊が相づちを入れたりして話は長くなりそうだった。
その後希伊の自由が丘の実家を訊ねたこと、永山奈津子とのやりとりとその顛末は詳しく話した。更に奥沢神社の境内で家政婦の城崎かな江と交わした約束。かな江の名前が出てきた時の希伊は、目を見開いて驚き涙をこらえるのに必死だった。希伊にとってのかな江は、育ての母、あるいは年の離れた姉のような存在であり、しかしながら金沢に来てからは電話一本入れていない自分を責めたに違いなかった。
T&Dの会社ではがむしゃらに仕事をしまくった。20代後半で結婚し引っ越しもして子どもが出来、そして彼らが大きくなってから離婚したこと。離婚の原因も正直に話した。原因と言っても龍一にもいまだに理解出来ない部分は大いにあるのだが、彼女の過去のことはすでに自分の中では抹消されていた。しかし龍一にとってはすでに他人だが、二人の子どもにとっては死ぬまで彼女は母親であり続ける。そんなことまで希伊に話すつもりはなかったが、胸の中のものを一気に話しておきたいという思いで、つい勢いで話してしまったのだった。

ここまで相づちを入れたり、笑ったり真面目な顔をしてりして聞いていた希伊が言った。
「ちょっと待って。ワインが凍っちゃうから」
パントリーからワインのボトルとグラスをふたつ持ってきた。龍一はソムリエナイフを受け取ると手際よくコルクを開けた。希伊と暮らしていた頃はよく家で安いワインを飲んだもので、コルクを開けるのはいつも龍一の仕事だった。あれ以来ワインなど開けることはめっきり減ったが、子どもの頃自転車に乗った経験があれば大人になってもすぐ乗れるように、手順やコツは頭と体に刷り込まれていた。
「相変わらずコルク開けるのうまいね。プロ並みだよ」
「いやいや、希伊のほうこそこんな店をやっていたらよほどプロじゃんか」
「ところがね、このコルクを開けるのだけは私、いまだに苦手なんだ。お客さんに出す時にね、こんな時リュウがいてくれたらなあって、いつも思ってた」
そんなことを言われて男は嬉しくないはずはない。龍一は照れ笑いしながら、もう少しいいかなと言って、最近のことを話し始めた。

「探偵の黒坂さんて覚えてるだろ?」
「ああ、黒坂さんか。もちろん覚えているよ」希伊は遠い目をした。
黒坂という探偵から会社に電話がかかってきたこと。彼も自由が丘の実家を訊ねて龍一の名刺から連絡先がわかり、二人で恵比寿で会って話したこと。黒坂は野田山の氷室家の墓地まで突き止めたことを龍一に話して聞かせた。それが唯一の手がかりとなり、金沢へ行くひとつのきっかけになった。今日もまずは墓地へ行き、そこからどうにかしてここへたどり着いたこと。黒坂は探偵業を引退して鎌倉で店を開くこともつけ加えた。黒坂の話を聞いた希伊は、驚いたようだった。女子高生だった自分に彼は、時間がかかるが追跡調査をしたいと言ってくれたことを思い出した。希伊の声はまた湿り気を帯びたものになり、鼻をすすった。
「黒坂さんに感謝しなきゃ、私」
「彼に感謝したいのは俺も同じさ」
龍一は続けた。これも話しておかなければいけない。
「もうひとつだけ。馬鹿正直って言われることは覚悟のうえで」
「なになに、どうした。リュウが馬鹿正直な人だってことは、昔から十分知ってるし」

龍一は会社で若い女子社員とつき合っていたことを話した。恭子とのことだった。ついでに離婚後恭子とそういう関係になるまでに何人かの女性とつき合ったことも話した。中には龍一がバツイチ子持ちを承知のうえで結婚を求める女性もいたが、でもどうしても彼女たちとの再婚の意思は持てず、龍一にとっては記憶の中を通過した女性たちに過ぎなかった。しかし恭子だけは違った。本気で再婚を考えたこともあったのだが、しかし希伊の影を心から追い出すことは出来ず、つい最近彼女と別れてここまで来たことを正直に伝えた。
「そうだったの」
希伊は龍一が若い子と別れて、そこまでして四十を過ぎた自分を求めにここまで来てくれたことに言葉を失った。そんな龍一をあの日突然彼の前から姿を消した自分を責めた。そのあとの龍一の心の喪失に思いを寄せると、今さらながら自分がとった行動を悔いた。
「俺は今日、希伊に逢いにきたんだ。それが今叶った。もし逢えなかったら恭子を失った代償は大きかったはずなんだ」
「リュウ、そろそろ私が今までのことを話す番ね。その前に改めてリュウに謝りたい」
「ん?」
希伊は言った。
「あの時はリュウの気持ちも考えず、突然いなくなって本当にごめんなさい」
龍一は何も言わず席を立った。希伊のところへ歩み寄ると中腰になって後ろから強く抱きしめた。希伊が涙目で振り返ると二人の間にある壁はすでに1ミリにも満たなかった。龍一は自然に希伊を求め、彼女もそれに応えた。
涙の味が二人の舌を刺激した。
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