希伊はビールグラスの泡をじっと見つめたあと、ゆっくり顔をあげて笑った。
「してないよ。今も花の独身だし。そんな暇なかったもん。」
「そうなんだ」
「そう、そうなの」
若くして身寄りのない金沢へ単身来てから、相当な苦労をしたのに違いない。少し淋し気な表情が気になったが、それ以上詮索するのはやめた。
「だってほら、俺が夕方来た時に、だぶだぶのユニフォーム着た小さい息子さんがいたり、ご主人みたいな人が出勤してきたのも見かけたけど」
「ああ、和也ね。翔子さんの息子。あっ、翔子さんっていうのは、私とこの店の共同経営者で、昼間だけ主にキッチンで働いて、夜は男性のパートさん、渡辺さんと交代するの。和也はもうこの店に入り浸りで、私の息子同然の付き合い。パートって言っても渡辺さんは昔、隣の富山の有名ホテルにいた腕のいい料理人なのよ。そのほかにアルバイトが数名。私はだいたいランチから入って夜までがメインでやってるの。だから今店を閉めても、リュウとこうして居られるわけ」
希伊はいたずらっぽい目で付け加えた。
「ね。安心した、リュウ」
龍一は世界の中心で快哉を叫びたくなった。トンネルを抜けたらそこは雪国ではなく、小鳥がさえずり春の陽光が降り注ぐ明るい草原が広がっているような気持ちになった。でもそれを希伊に素直に悟られたくはなく、虚勢を張ってみようとしたが、すでに希伊に心を読まれているはずだった。
「あ、うん、まあね」
今度は希伊が少し眉根を寄せて龍一に訊く番だった。
「リュウはどうなの今。当然結婚して家庭もあるんでしょ。それが普通だもんね」
「結婚、してた」
「してた?」
「そう、してた。過去形さ。ずいぶん前にいろいろあって離婚した。今は希伊と同じ健全なる花の独身。ただしいわゆるバツイチ子持ちってやつ。子どもはいるよ。思春期街道まっしぐらの中学男子と、ちょっとおとなしい乙女チックな小学生女子。二人とも野球やってる。娘のほうは性格はおとなしいけど、チームではクリーンナップ打ってるんだ」
今度は龍一が希伊の表情を読み取る番。希伊の目の奥にほっと安堵の色が宿ったのを感じた。それは龍一の感情と同じ種類の色だった。互いに目の前に広がる、同じ春の草原を眺めていることを意味していた。
「へえ、そうなんだ」
希伊も一見気がないふうを装いながら、彼女の顔に少し赤味が差した。それは決して酒のせいではなく。龍一は席を立ち「もう1本ビールもらっていいかな」と言い、勝手にパントリーへ行って冷蔵ショーケースからビールを取ってくると、希伊のグラスに注ぎ、自分のそれも満たした。
龍一が席に座ると希伊が身を乗り出して言った。二人の間にあったぎこちない壁はいつの間に崩れて、堰を切ったように舌が滑らかになった。
「ねえ、リュウは今日どうしてここへ来たの?旅行?仕事?まさか偶然?」
「全然偶然なもんか、必然だよ。日本中、いや世界中、ナイアガラの滝壺から、ヒマラヤのクレバスの底まで希伊のことを探しまわったんだ」
「あはは、金沢の田舎で残念でした」
龍一は急に生真面目な顔になると言った。
「じゃあ、俺から話すね。あの日から今日までの17年間のことを。全部話すと今からまた17年くらいかかるから、原稿用紙2、3枚くらいにまとめて。そのあとは希伊の番だぜ」
希伊は右手の手のひらを頭のこめかみに持ってきて最敬礼する。
「もちろん」
話せばビール一本くらいはすぐに空になりそうだった。龍一が話し始めようとすると希伊はそれを制し、席を立ってしばらくして戻った。
「ビールの次は赤ワインでいいかな。リュウは赤は常温よりも少し冷やしたのが好きだったよね。今製氷機に入れて冷やしておいたから」
「じゃあ、凍っちゃう前に話し終えないとな」
龍一の胸の時計もあの日の日曜早朝まで逆回転していった。
「してないよ。今も花の独身だし。そんな暇なかったもん。」
「そうなんだ」
「そう、そうなの」
若くして身寄りのない金沢へ単身来てから、相当な苦労をしたのに違いない。少し淋し気な表情が気になったが、それ以上詮索するのはやめた。
「だってほら、俺が夕方来た時に、だぶだぶのユニフォーム着た小さい息子さんがいたり、ご主人みたいな人が出勤してきたのも見かけたけど」
「ああ、和也ね。翔子さんの息子。あっ、翔子さんっていうのは、私とこの店の共同経営者で、昼間だけ主にキッチンで働いて、夜は男性のパートさん、渡辺さんと交代するの。和也はもうこの店に入り浸りで、私の息子同然の付き合い。パートって言っても渡辺さんは昔、隣の富山の有名ホテルにいた腕のいい料理人なのよ。そのほかにアルバイトが数名。私はだいたいランチから入って夜までがメインでやってるの。だから今店を閉めても、リュウとこうして居られるわけ」
希伊はいたずらっぽい目で付け加えた。
「ね。安心した、リュウ」
龍一は世界の中心で快哉を叫びたくなった。トンネルを抜けたらそこは雪国ではなく、小鳥がさえずり春の陽光が降り注ぐ明るい草原が広がっているような気持ちになった。でもそれを希伊に素直に悟られたくはなく、虚勢を張ってみようとしたが、すでに希伊に心を読まれているはずだった。
「あ、うん、まあね」
今度は希伊が少し眉根を寄せて龍一に訊く番だった。
「リュウはどうなの今。当然結婚して家庭もあるんでしょ。それが普通だもんね」
「結婚、してた」
「してた?」
「そう、してた。過去形さ。ずいぶん前にいろいろあって離婚した。今は希伊と同じ健全なる花の独身。ただしいわゆるバツイチ子持ちってやつ。子どもはいるよ。思春期街道まっしぐらの中学男子と、ちょっとおとなしい乙女チックな小学生女子。二人とも野球やってる。娘のほうは性格はおとなしいけど、チームではクリーンナップ打ってるんだ」
今度は龍一が希伊の表情を読み取る番。希伊の目の奥にほっと安堵の色が宿ったのを感じた。それは龍一の感情と同じ種類の色だった。互いに目の前に広がる、同じ春の草原を眺めていることを意味していた。
「へえ、そうなんだ」
希伊も一見気がないふうを装いながら、彼女の顔に少し赤味が差した。それは決して酒のせいではなく。龍一は席を立ち「もう1本ビールもらっていいかな」と言い、勝手にパントリーへ行って冷蔵ショーケースからビールを取ってくると、希伊のグラスに注ぎ、自分のそれも満たした。
龍一が席に座ると希伊が身を乗り出して言った。二人の間にあったぎこちない壁はいつの間に崩れて、堰を切ったように舌が滑らかになった。
「ねえ、リュウは今日どうしてここへ来たの?旅行?仕事?まさか偶然?」
「全然偶然なもんか、必然だよ。日本中、いや世界中、ナイアガラの滝壺から、ヒマラヤのクレバスの底まで希伊のことを探しまわったんだ」
「あはは、金沢の田舎で残念でした」
龍一は急に生真面目な顔になると言った。
「じゃあ、俺から話すね。あの日から今日までの17年間のことを。全部話すと今からまた17年くらいかかるから、原稿用紙2、3枚くらいにまとめて。そのあとは希伊の番だぜ」
希伊は右手の手のひらを頭のこめかみに持ってきて最敬礼する。
「もちろん」
話せばビール一本くらいはすぐに空になりそうだった。龍一が話し始めようとすると希伊はそれを制し、席を立ってしばらくして戻った。
「ビールの次は赤ワインでいいかな。リュウは赤は常温よりも少し冷やしたのが好きだったよね。今製氷機に入れて冷やしておいたから」
「じゃあ、凍っちゃう前に話し終えないとな」
龍一の胸の時計もあの日の日曜早朝まで逆回転していった。
0 件のコメント:
コメントを投稿