龍一はホテルへチェックインしシャワーを浴び軽いつまみだけでビールを飲んだあと、希伊に言われた閉店時間を少し過ぎた頃、もう一度シェンロンを訊ねた。入り口横の看板を照らしていたスポットライトはすでに消されて、ドラゴンの彫刻は周囲の環境光だけでほんのりと浮かんでいた。
龍一は夕方希伊と一旦別れてからずっと頭の中が混乱していた。彼女は仕事が途中だったため急ぎ店に戻らなければならず、今の希伊のことを何も訊かずに別れたので、いろんな不安が胸にまとわりついていたのだった。特に店で見かけたカズヤと呼ばれていた小学生と、確信はなかったがキッチンへ消えて行った男の姿がまだ頭から消えなかった。一度疑心を持てば闇の中に暗鬼を生じさせてしまう。しかし胸の内はそんな疑心暗鬼よりも、その何倍もの期待と悦びの感情に支配されていた。ドアの把手にはこれも手作り風の米松のプレートにCLOSEDの文字。店の窓にはカーテンが引かれて中は見えず、一部の照明しか点いていないようで薄暗かったが、框扉のガラス越しに店内を覗くと、カウンターと奥のテーブル席だけに照明が点灯されて明るくなっていた。ゆっくりとドアを開けた。
「こんばんは」
龍一の声はしばらく受け取り手を探して誰もいない店内を漂っていたが、やがて空気に馴染んで消えた。トイレだろうか。カウンターの前まで進みもう一度声をかけた。
「こんばんは。希伊、いるの?」
突然後ろから人が抱きついてきた。龍一は一瞬驚いて、「うおっ」と声にならない声を漏らしたが、すぐにその背中の感触から希伊だと悟った。腹には希伊の腕が回されているのが見える。
希伊が背後から耳元に囁いてくる。
「びっくりした?リュウ」
龍一は笑いながら後ろを向こうとすると、また希伊が言った。
「お願い、もう少しこのままでいて」
「うん」
しばらく言われるままにじっとしていると、背中に感じる柔らかな丸いふくらみの向こうから、希伊の心臓の鼓動までが伝わってきそうだった。月に降る雨はやみ、暗かった太陽は少しずつ輝きを取り戻し、明るく熱くゆっくり蘇るように感じた。
ずいぶん長い間そうしていると希伊は大きくふうっと息を吐き、言った。
「良しっと。さあ、飲もっか」
「何が良しなんだよ」
「まあ、いいじゃない。それは追々ってことで」
そう言うと龍一の前に進み出て、
「あそこに簡単なつまみとお酒用意してるから」
奥のテーブル席を見ると何皿かの料理と、グラスが並んでいた。席に座るとたたみかけるように希伊が言う。
「リュウは最初はビールだよね。そのあとワインもあるよ。ワインはフルボディの赤。ウィスキーならバーボン。飲み方はオンザロックでしょ」
あっと小さく口を開けてまた続ける。
「昔の好みはそうだったけど、今はもう変わっちゃったのかな」
「よく覚えてたなあ、全く変わってないよ。変わったのは飲み過ぎた翌朝の辛さが昔の100倍くらいになったことかな」
そりゃあ、私もそうだよと、希伊は言った。
「希伊は最初から最後までビールだろ。たまに勢いでカクテルや日本酒に手を出すと、顔を真っ赤っかにしちゃって、あとが大変になる。今でもそうか?」
「そうだよ。でもあの時よりもお酒は強くなったかな。さ、飲もうよ」
そう言うとキッチン横のパントリーへ行き瓶ビールを2本持ってきた。お互いのグラスにビールを注ぎかちんと鳴らして乾杯した。龍一はこの料理旨いぞとか、古いけど良い店だねとか、希伊も今日は忙しかったよとか、そんな話でしばらく時間が過ぎた。互いに何かに遠慮していることは明らかだった。訊きたいことはたくさんあるのに。それも互いに分かり合えている二人だった。
龍一が切り出した。
「あのさ、希伊」
「なあに、リュウ」
「もちろん、結婚してる...よね?」
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