2012年8月25日土曜日

繰り返してはならぬこと


原爆ドームへ行った。
20代の頃一度行ったことがあったので今回は2度目の訪問となる。路面電車の市電を降り立ったところにこのドームがある。23歳だった頃の若造には、戦争の悲惨さや原爆の威力や恐ろしさばかりに目が向いて、この世界遺産が伝える本質的なメッセージに気づいていなかったように思う。30年ぶりに訪れて私の胸に去来しこみあげてきたものは、二度とこの過ちを繰り返してはならない、ということ。これがこのドームが後世に伝えるべき真のメッセージなのではないだろうか。あえて原爆を投下した米国を批判することなく、当時の気が狂ったような大日本帝国が、開戦を是とし戦争への歩調を早めていったことの愚行を悔恨すべきである。

このドームは広島県産業奨励館だった。昭和20年8月6日この建物の上空600メートルでそれは炸裂した。その爆風は音速よりも速かった。奇しくも私が今回訪れたのは太陽が南中しようとする時刻。カメラのレンズを建物を仰ぎ見るように撮った。まるで当時のその爆裂の瞬間のような画が切り取られた。

配偶者の祖父は陸軍将校だったそうで、命日は8月6日である。たまたま外地から市内へ戻っていたそうだ。昔の広島の人はそれを「ピカドン」と呼ぶ。結婚したてのころ興味本位で義父母に戦争当時のことを訊ねたことがある。配偶者の父母はあまり戦争当時の話をしたがらなかった、特にピカドンについては。あまりに忌まわしい記憶だから憶(おも)いだしたくないのであろう。増してや義母はここの現場を目の当たりにしているのである。重い口を開いて語る言葉少なな中にリアルタイムを生きてきた人の現実が私の目の前に立ち上がる。ドームを境にしてふたつに分かれる旧太田川と元安川。そこに夥しい数の老若男女の被爆した人たちが喉の渇きに耐えかねて川に殺到し息絶えた。この川の川面が見えなくなるくらいの死屍累々の山だったそうだ。学徒動員で子どもの数も多かったと聞く。
戦後68年。今改めて河畔に佇み原爆ドームを眺め、当時のことに思いを寄せてみると熱く胸に迫りくるものがあった。

炎天下の平和記念公園を散策しながら、ほどなくして記念碑のある場所へ。終戦記念日にTV中継されるところで有名である。石のモニュメント越しに見えるのは原爆ドーム。ヨーロッパの庭園建築を模した設計であろうか。たまたま私の前に来て黙祷を捧げていた家族づれがいた。お父さんはカメラを構えていたのでアングルには収まっていないけれど。私は見ず知らずのこの家族が頭(こうべ)を垂れる姿になぜか感動してしまった。特に子どもたちが深々と頭を下げていることに。小さな子どもには戦争のことなどまだ分らないことが多いはずだ。でもこんな子どもの姿を見ているとなぜか心安らぐのである。ファインダー越しにまたも胸が熱くなってしまい....。

こんな風な戦争を題材にしてブログを書いたのには訳がある。
最近の竹島・尖閣諸島問題が根底にある。本来政治問題にはこのブログでは一切書かない方針であるけれど。いろんな思いがあり、ここでそれを書くには紙面足りず。
まず私は右寄りでもなければ左でもないのを自認するのを理解してもらいたい。それでもかの隣人の常軌を逸した行為には正直腹が立つのを禁じ得ない。せっかく近年の日本における韓流ブームでとても「近い隣人」になったと心が緩む思いをしていたのに、この急転直下の愚行は嘆かわしい。サムスンなどの世界的台頭を言うまでもなく、近代国家としての韓国の経済成長には目覚ましいものがあり、舌を巻く思いと同時にやっと国際社会の一員として立国したと感じていたのである。かつての戦後日本が幼児から大人に成長したような同じ思いでいた。そこへもってきて今回の暴挙。国際社会における一員としての自覚のなさに驚いた。自分のことしか考えない者は正直嫌いだ。中国に対しても同じ思いがある。国際社会における民度の成熟度でいえば韓国の比ではない。一見、近年目覚ましく経済立国したかのように見えるかの国であるが、反して民度が経済大国の冠の名に追随してないように思う。
断っておくけれど、これは個人的な話ではない。我が少年野球チームフレンズには中国人の親御さんがいる。私は個人的には彼の大らかなキャラが大好きだ。これは個人をうんぬんする話ではない。また韓流のタレントも好きだし、伊集院静のような韓国人の血を持つ男特有の、日本男児にはない韓国人特有の骨太の逞しさには一目置いているつもりだ。

竹島と尖閣では論じる土俵が違うけれど、根底にあるのは歴史認識なのであろう。野田さんはそれとこれは別問題と言うけれど、彼らと日本のすれ違いの根源はやはりここなんである。彼らにとっては植民地支配と戦争被害者としての憤懣やるかたない意識があるからであろうと思う。ここをどうにかしないことにはいつまで経っても同じことの繰り返し。
だからといって日本の軍備増強論や性急な右寄りの考え方には賛成しかねる。絶対繰り返してならないのだから。被爆国の貴重な経験を今一度想い起こして欲しい。弾薬のきな臭さを鼻に感じるようになっては駄目だ。何のために原爆ドームが世界遺産になったのか。引くべきところは引いて、言うべきところは毅然たる態度で敢然と臨む。日本政府には歴史的過ちを認めた上での、国際社会における大人の対応を切に願う。我々はもう大人なんだから。
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久々にいっぱしのエッセイをガチガチに書いた。ちょっぴり恥ずかしい。異を唱える人たちもあろう。それもこれもここまででご勘弁願いたい。

ここからは少しだけ砕けて...。
この平和記念公園の一角に鈴木三重吉の記念碑がある。
鈴木三重吉をご存知だろうか。広島出身の児童文学の父といわれ児童文芸誌「赤い鳥」を創刊した人である。夏目漱石の門下生での一番弟子だった人でもある。
筆者の息子がフレンズに入団して間もなく、Suzukiという子が入ってきた。後になって知ったことであるが、この子は紛れもなく鈴木三重吉のひ孫なんであった。とてもトリッキーで楽しい子であった。フレンズ30周年記念式典にも息子とともに連絡を取り合い、立派に成長した若者として顔を見せてくれた。鈴木三重吉の銅像を発見し想い起こしたのであった。

新幹線発車までの間、駅前にあるお好み焼きで昼食をとったのは言うまでもない。すっかり恒例となってしまった感あり。「電光石火」という超人気店である。メッチャうまかった(^^)
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