2016年8月26日金曜日

小説「月に雨降る」20

羽田空港の喫煙室で鈴木孝雄と月地信介と待ち合わせ、9時発の鹿児島便を待ちながら最後の煙草を吸っていると龍一のiPhoneが震えた。恭子からのLINEだった。
『おはよ。もうすぐ飛行機出るね。ちゃんと起きれた?』
孝雄たちはもう喫煙室を出ようとしている。急がなきゃいけない時間だった。既読スルーは悪いと思い、急いでスタンプだけを送った。恭子の『ちゃんと起きれた?』には理由があった。鹿児島のクライアントへプレゼンするのに昨晩は会社で終電まで粘ったのだがどうしても終わらず、このまま社内で中途半端に徹夜するよりも、家に帰り風呂に入ってさっぱりしてから、朝まで自宅のMacで作業をしたほうが効率が良いと判断し、データを入れたUSBをバッグに放り込み、終電間際の酒臭い満員電車で帰宅したのだった。自宅のプリンタで出力したのではカラーレーザーとは雲泥の差がある。とても仕事で使えるレベルではない。仕上げたCADデータを全てPDFに変換しUSBに保存。それを現地鹿児島のセブンイレブンのマルチプリンタで10部出力し会議へ持って行くという、かなりサーカス的な綱渡りの状況だった。
恭子は事務職なので昨晩7時には退社したのだが、龍一の徹夜のことは電話で訊いて知っていたのだった。

東京湾上空は快晴だった。機首は一路西へ向けて湾を迂回した。眼下に点在するいくつかの雲の影が地表に投影される。ときおり飛行機自身の機影も山々の緑のじゅうたんの上を這っていた。機内を見渡すと孝雄たちとは席はばらばらだった。恭子がパソコンで出張のJAL便を手配するが、座席は搭乗前に各自がJALカードを使って発券機で取るためだった。孝雄は週刊誌を読んでいた。信介はと言えば個人のマイルを利用して前方のワンランク上の大きな座席を取って何やらCAと親し気に話をしている。アイツらしいなと苦笑しながら龍一は文庫本を開いた。たった1、2ページ活字を追っているうちに視界がぼやけてきた。子どもたちはちゃんと学校行ったかな。たとえ無人島に漂流しても生きていけるだろうと思われるくらい独立心の強い中二の息子は心配ないが、最近親父との会話がめっきり減った小学生の娘は大丈夫だろうか。そんなことに思いを巡らせていると、ふいに薄暗がりで落とし穴に落とされたように、睡魔に足元をすくわれた。

機体の揺れが激しくなり、目が覚めてみるとすでに鹿児島県近くの上空だった。
龍一の隣の座席には帰省する途中なのだろうか女子大生らしき女の子が座っていた。むくつけき中年のオッサンが肩が触れんばかりの距離に存在するよりは、うら若き女性が隣席にいるほうがいいに決まっている。しかし龍一は思い直した。俺だってもう40過ぎだ。この女子大生から見ればむくつけきオッサンの一員にしか見えないかもしれないではないか。会社にはばれないように付き合っている二十代前半の恭子の目から見て、俺はどう見えるのだろうか。年の差はおよそ二十近くある。右肩に重みを感じてふと隣の女子大生を見ると、あどけない顔をした彼女が頭をもたせかけて来ていた。あともう少しだしこのままの状況も悪くはない。迷惑そうな顔をして無理に彼女の頭を押しやるほど俺は無粋な男ではないと龍一は思った。仮りに男だったならもちろん速攻で押し返している。
外はかなりの悪天候になってきたようだった。そういえば台風が接近しているとか昨晩の徹夜仕事でつけていたラジオで言っていた気がする。窓外に見える主翼はおまえ本当に金属なのかと疑いたくなるほど上下にしなっている。機体が激しく揺れるのにやっと慣れ始めたころ、突然急降下したかと思えばかろうじて水平を取り戻したり、また左右に揺れて急に落ち始めたりの連続が始まった。こんな時『ジェットコースターのように』という手あかのついた形容があるがまさにこれだと思った。機内では何人かの女性の悲鳴が聞こえる。龍一にもさすがに緊張が走った。それでも女子大生は龍一に上半身を預けたまま起きなかった。どれだけ熟睡しているのだろう。睡眠薬でも盛られたか。もうすぐ鹿児島空港なはずだと思ったら、機内中央のテレビモニターが機首に取り付けたカメラ映像に切り替わった。暴風雨で視界はすこぶる悪い。昭和三十年代の街頭テレビよりも画質が粗い。左右に点滅する滑走路のガイドラインの灯が心もとない。みるみる体にGがかかり滑走路の映像が大きく目の前に迫って来て、コンクリートの路面が画面いっぱいに占めてきた。
タイヤがきゅるきゅると悲鳴をあげて煙を発する画が龍一の頭をよぎる前に、いきなり地球に体が引っ張られる感覚に襲われた。モニターの映像は先ほどまでの滑走路ではなく、灰色の雨空と思われるものが映し出されていた。地球から垂直に宇宙へ打ち上げられたスペースシャトルに乗ったような感覚だった。機内に悲鳴が錯綜する。機は着陸寸前に強い横風を察知し管制塔の指示で急上昇をしたのだった。少し経ってから機長アナウンスで分かった。2、3回空港を旋回したあと機はどこかへ真っすぐ向かって行くのが分かった。バンジージャンプを飛ぶか飛ぶまいかさんざん迷った末に未練がましくキャンセルしたみたいに。
このあとの機長のアナウンスによると、九州各地の空港はどこも悪天候で、かつ避難する航空機で混雑しており、当機はいったん伊丹空港へ向かうとのことだった。このアナウンスの直後孝雄と信介と龍一はそれぞれの座席でアイコンタクトで目を合わせたがもはや笑うしかなかった。
薄曇りの大阪伊丹空港へ到着し、燃料補給が行われた。髪がギリシャ神話のメドゥーサのようになった女子大生がやっと目を覚ましたようだった。龍一に向かって寝ぼけまなこで言った。
「あのう、もう鹿児島着いたんですか?」
「いや、ここは大阪の伊丹空港だけど」
「えっ、私鹿児島行きのチケットで乗ったのに。え、え、え、どうして?」
苦笑しながら事の顛末を手短かに説明した龍一だったが、彼女はまだ自分が置かれている状況が信じられないようだった。龍一にしてみればあのパニック映画のような揺れの中で、全く目を覚まさなかった彼女のほうが信じられなかった。孝雄はクライアントへ速攻で電話を入れて事情を説明し了解を得たようだ。会社にも予定の大幅な変更を報告していた。信介は龍一の席へやって来て「いやあ、参ったっすねえ、こんなことってあるんですね」となぜか嬉しそうにニヤニヤしながら、また席へ戻りCAに声をかけて飲み物を頼んでいた。
このあと機はもう一度鹿児島へ向けて出発し、まだどんよりした雲が残る鹿児島空港へ無事到着したのだった。

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