「誤解しないでよ、サチコちゃんの特別往診に来たんだから」
と言って由美はコンビニ袋を龍一に預けると、ソファに座っていたサチコに歩み寄り昨晩と同じような診察を始めた。サチコを診ながら龍一に声をかけた。
「どうせならと思って昼ご飯も買ってきたから、良かったら食べる?あっ、神島さん昼まだだよね」
「はい、まだです」
言われて急に空腹感が襲ってきた。考えてみれば土曜の晩に希伊とふたりで夕飯を食べたきり、今日月曜まで食事をしていなかった。昨日は終日食欲が全くなく、ものを食べるという発想すら頭になかったのだった。袋の中を見ると二人分の弁当と飲み物があった。
「すみません、ありがとうございます。実は僕、死ぬほど腹減ってました。小鳥遊さんは今お昼休みで、わざわざここへ?」
「そうよ。普段は近くのファミレスか、コンビニ弁当をクリニックの控え室で食べるんだけどね。なんか押し掛けたみたいに思われるのが嫌だったけどさ、心配だったから。電話しても全然出ないんだもの」
龍一はキッチンでお湯を沸かしインスタントのみそ汁を作りネギを刻んだ。希伊のお椀に由美の分を作った。二人でテーブルを囲みながら食事をすることになった。
「昨日ここにたどり着いたあたりから朝まで全く記憶がないんですけど、僕どうしたんですか」
「あれから大変だったのよ。ベッドに持ち上げて寝かせて、これで帰ろうかと思ったけど、熱があったからね。着替えをさせて冷蔵庫に保冷剤があったからタオルで頭に巻いたりして」
「えっ、そうだったんですか」
感謝の気持ちよりも羞恥心が勝(まさ)った。由美が年上の奇麗な女性だったせいでもある。
「何から何まで昨日は本当にありがとうございました」
箸を休めて龍一は真摯に頭を下げた。あの朝のじいさんといい、この獣医といい、自分は周りの見知らぬ人に支えられて今ここにいるのだと思い知った。ニュース番組などでまんざら日本も捨てたもんじゃないよと、訳知り顔のテレビのコメンテーターが言うのも納得がいった。そんな龍一の心情を察したかのように由美が言った。
「私だってね、いろんな人に助けられて今があるの。離婚で落ち込んだ時に娘の一言に救われたりとかさ。クリニックを開業する時なんか、ひどい内装業者に騙されて手付金を持ち逃げされてもうダメだって思った時も、動物好きの地元の内装屋さんに格安で工事してもらったり。みんな助けて助けられて人って生きているんじゃないかな」
ソファの上でサチコは丸くなり目を細めてウトウトしていた。由美は続けた。
「自分一人でなんでも出来る人間なんていないもの。人に助けられたらそれをまた誰かに返してあげるのが、恩を受けた者としての務めじゃないかな。ささやかでもいいから自分の出来る範囲で。但し人を見る目も養ってないとダメだけどね」
と言うことは自分は由美のお眼鏡にかなったということだろうか。苦労を重ねて大人になると人を見る目も自然と養われるのだろう。いや、少し違うと龍一は思った。やはり年齢や経験の前にその人の資質と人間性が基本にあるはずだ。その上に経験を重ねていって人としての厚みが増すのだと思った。年上だ経験者だというだけで、若い者に居丈高な態度をとる大人が実に多いことを、まだ五、六年の少ない社会経験ながら龍一は知っていた。
「ごめんね。ほんと、神島さんの状況も分からないのにずうずうしく押し掛けたみたいで」
「とと、とんでもないです。すごく助かりましたし、小鳥遊さんの言うとおりだと思うし、いい勉強になりました。それに、なんかとても嬉しいんです、こんなふうに見ず知らずの他人と心が通じ合えるということが。あまりうまく言えないんですけど。それに」
「それに?」
「さっきの恩を返すって話ですけど。僕、去年仕事で会社の売り上げにも響くような大きな失敗をしてしまって。全く自分一人のミスだったんです。それを僕の名前を一切出さずに会社に頭を下げた上司がいまして。全て自分の責任ですと。孝雄さん、あ、いや、鈴木課長というんですけどね。あとで僕が申し訳なくて課長に謝って、いつか仕事でこの恩を返します、と言ったら課長は、恩は俺に返さなくても良い、そのかわり将来おまえにも部下が出来るだろうからその時に部下に返せと」
あの時孝雄は、俺は上司として当然のことをやったまでだから気にするなと、くわえ煙草で高笑いしていたのを今でも鮮明に覚えている。由美が言った。
「たぶん、その課長さんも若い時にその時の上司か仲間に助けられて同じような経験をしたんだと思うわ、きっと」
由美は腕時計をちらりと一瞥し、眉間に素敵な皺を寄せて言った。
「神島さん、昨晩あなた、奥さんになるはずの人と昨日まで一緒だったとか言ってたけど。ベッドに横になってからも、『きい』がどうしたとか、うわ言みたいに言ってたわよ。『きい』って鍵のキーじゃないことくらいは理解できたわ」
龍一は頭の熱が下がったと同時に、心の底辺も冷え冷えとしているのを感じた。
「いろいろあったみたいね。これ以上詮索するつもりはないわ。あっもうこんな時間。クリニックに戻らなきゃ。これでも開院以来結構繁盛してるのよ。病院が繁盛するのって、動物にとっては良くないことだけどね。昨日の診察代は一度クリニックに来て精算してね。いろいろ書類を作らないといけないから」
そう言うと由美はソファに向かってサチコちゃんまたね、と言って立ち上がった。その時に艶やかな黒髪が揺れて、豊満な胸元に着地するのを目の当たりにした。玄関先で見送りながら龍一は間抜けなことを言った。
「あ、せめて今日のお昼代を」
「何言ってんのよ、あれは私の奢りよ。今度倍返ししてもらうからね。生ビール三杯でどうお?」
小鳥遊さん、と言いそうになって思い直した龍一は勇気をふるって言った。
「由美さん、了解です。今度ぜひ」
ドアが閉まったあとやるせない気持ちになった。つい昨日の朝、希伊が失踪して胸が締め付けられるような喪失感に苛まれているというのに、一方で目の前に現れた素敵な美人に心のどこかが落ち着きを失っている自分がいる。男の身勝手さを恥じると同時に、後者を肯定し受け入れようとする龍一だった。
しかし、希伊によって心に穿(うが)たれた穴は気が遠くなるほど大きく深く、今26歳の龍一がその後40を過ぎてもなお、その穴が少しも小さくなることはなかった。
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