2017年10月11日水曜日

小説「月に雨降る」53最終回

希伊は迷わず頷いて、にっこり笑って返した。
「はい。こんな私で良ければ」
しかしほんの少し顔を曇らせながら続けた。
「でも、すぐには」
希伊が迷うのには訳があった。今の店をどうすればいいのか。
「この店のこと、ここでの生活のこと。一回リセットしなければいけないわ。そう簡単にはいかないよ」
それは龍一にも十分理解出来た。共同経営なら尚更複雑だろう。龍一は言った。
「うん、物理的に難しいことはいっぱいあると思う。たぶんアライグマがこれからロッキー山脈を越えようとするくらい気が遠くなることだと思うよ」
「私はアライグマかいっ」
「うん。ただし可愛いやつ」
「だったら許す」
「うちだって息子と娘に話さなきゃいけない。でもこれはたぶん、二人とも了解してくれる自信はあるんだ。実は息子にはもう話してあって、あいつ生意気にも希伊に会ってみたいなんて言ってるくらいなんだ。家が狭ければ買い替えを考えてもいい。うちは大丈夫だと思うけど問題は希伊のほうだね」
少し考えて希伊が言った。
「この店は結構順調なの。売り上げも安定してるし。でね、もう全然思いつきだから、現実味がないかもしれないけどさ」
「うん、どうした?」
「あのね。東京に金沢のこの店の二号店を出すっていうのはどうかな」
「ほう」
「ここ半年ほど前から金沢にもう一軒店を出そうかって考えてたところなの。結婚してリュウと子どもたちと一緒に住みながら、金沢じゃなくいっそ東京に店を出すの。リュウの住んでる街の近くでもいいわ。東急の田園都市線て言ったよね。金沢のここは人を雇ってちゃんと維持しながら。翔子さんとじっくり今後のことを話さなきゃいけないけどね」
「シェンロンの東京支店か。めちゃくちゃ大変だけど、逆に面白そうだな。軌道に乗ったらゆくゆくは小さくてもいいから、法人化したほうが良いかもね。金沢と東京と神奈川を行ったり来たりするわけだ」

おそらく相当な犠牲を伴う冒険かもしれないと龍一は思った。けれど自分が会社を辞めて金沢に行けるはずもない。四十を過ぎた龍一にとって、今の仕事は脂がのって良い時期を迎えていた。難しい仕事ほどモチベーションが高くわくわくした。子どもらも転校となれば絶対嫌だと言うに違いない。結婚し自分の家へ来てくれるなら、希伊の望みは出来るだけ叶えてあげたい。龍一は続けた。
「すごく大変なことだと思うよ、絶対、想像以上に。予定外、予想外、想定外のことがいっぱい降りかかってきてさ。資金のことや物理的なことや、なんやかや」
希伊は上気した顔で龍一を見ていた。
「でもさ、俺もそれに乗った。一緒に頑張ろう。東京店の設計は俺に任せてくれ」
「ありがとう、リュウ。わたしも頑張る。それよりもまず、翔子さんと話をして、そしてリュウのお子さんに会いに行かなきゃね。あの頃は子どもや結婚に対して頑(かたく)なだったけど、今は子ども大好きだから」
「うん。当分は俺が週末金沢へ来て相談にも乗るし。たっぷり時間をかけてベストな方法を二人で考えよう。あっ、今度家族旅行がてら子らを金沢に連れて来て紹介するっていうのもいいな」
二人はソファの上でもう一度きつく抱きしめあった。

ふと龍一が言った。
「話が違うけどさ、ここの店名『シェンロンの背中』って、どういう意味なの」
希伊はにっこり笑って言う。
「あっち向いて」
「えっ?」
「いいから私に背中を向けて」
龍一が言うとおりにすると、背後から希伊が柔らかくしなやかに抱きついてきた。
「一緒に住んでた頃から私、こうするのが大好きだったの憶えてる?」
「え、ああ、そう言えばそうだっけ」
「あっ、こいつ、忘れてるな」
そう言うと希伊は龍一の肩に結構な力で歯を立てた。
「痛てて。こういう時は普通、甘噛みだろ」
希伊は笑いながら言った。
「私の実家って言うのはおかしいけど、自由が丘の奥沢神社は憶えてる?」
「もちろん。さっきも言ったように希伊がいなくなってから、俺が自由が丘に行った時に、かな江さんと一緒に話し込んだ所だ」
「そう、あそこ。そこの鳥居に蛇が絡みついてるのも知ってるよね。見ようによっては龍みたいな」
荒縄で編んだ蛇に模したものが鳥居の上に飾ってあることで有名な神社だった。あれを見て龍一は蛇じゃなく、不細工で愛嬌のある龍みたいだと思ったものだった....。
「ん、蛇みたいな龍?」
「そう、龍。ドラゴンボールに出て来るシェンロンよ。七つの玉を集めると願いが叶うっていう。そこから店名はシェンロンにしようって思ったの」
「龍の背中?」
「まだ気づかないの?龍一くん」
龍一は希伊の丸い豊かな胸のふくらみを背中に感じながら考えたが、答は手が届きそうで届かないような感覚だった。
希伊が言った。
「シェンロンは漢字で書くと?」
「確か、神様の神に、ドラゴンの龍で神龍」
あっと思った。
「そう、神島の神に、龍一の龍で神龍。シェンロンの背中よ」
希伊は一層力を込めて龍一の背中を抱きしめた。

                        了
................

全くの思いつきで小説風のブログを書いたのが、昨年の5月19日。ふざけて書きなぐっただけで次を書くつもりなど全くなかった。それが気がつけば53回分の小説に。400字詰め原稿用紙で300枚超え。

この小説をいかほどの方に読んでいただいてるのかは全く想像出来ないですが、今日まで辛抱強く読んで下さった方々には、本当に心から深謝申し上げます。一年五ヶ月の長期に渡りしかも不定期での連載ゆえに、大変読みにくかったことは想像に難くありません。

読者の方々、まことにありがとうございました。
(機会があれば批評感想など聞かせていただければ嬉しいです)

さて、近いうちにこの小説の作者の「あとがき」的な文章も書いてみたいと思うわけで。
「醜い言い訳」「悪あがき」「ネタばらし」に近いブログになること必至なんである。
2017年10月11日 記
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