2017年4月27日木曜日

小説「月に雨降る」39

「恭子、今日の八時に渋谷のあのスペインバルで会えないか」
耳元でちいさく囁かれた恭子は少し驚いた。
恭子も小声で返した。
「どうしたのリュウさん。そんなに改まってさ」
ランチから戻ったばかりの設計室は人はまばらだった。渋谷の店とは、駅から代官山方面へ少し入ったところにある飲食ビルの五階の個室がある店だった。一度だけ二人で行ったことがあった。普段ならデートの時は、仕事が早めに終わりそうな日に、どちらからともなくスマホのLINEで連絡を入れるのが普通だった。直接社内で言うことはめったにない。恭子の怪訝な反応に多少狼狽しながら龍一は言った。
「あ、うん、まあね」
「いいわよ、私は。八時ね」
「うん、今日は俺、心斎橋の実施設計の打合が終わるのが七時半くらいかな。たぶんその時間には行けると思うから」
ここ数ヶ月龍一の様子に異変を感じ取っていた恭子は、眉根に皺をよせながらデスクのパソコンに向き直った。龍一と恭子の仲はいわゆる社内恋愛だ。そういうものはややもするとすぐバレてしまうものだったが、龍一の考えでつき合った当初から社内では絶対分からないようにしようと恭子には言ってあったし、また、恭子も女子の同僚や周囲などにも一切悟られないように気を遣っていた。設計の部署では二人は普通に仲のいい上司と部下の関係に見えているはずだった。

店に着くとすでに恭子は小さな個室で待っていた。ビールのジョッキはまだ四分の一ほどしか減っておらず、恭子も来て間もないことを龍一に知らしめた。
「ああ腹減った。ビールと何頼もうかな。前回食べたあれ、うまかったよな。なんだっけ」
「まぐろとアボカドのカルパッチョでしょ、スペインなのにイタリア料理。もう頼んであるし。たぶんリュウさん頼むだろうと思ってね。それとあとでアヒージョもね。リュウさん大好きだもんね」
「おう。それと最後はパエリアだね」
付き合いが長くなればなるほど、互いのことは以心伝心だった。龍一も恭子の服装の好みや、嬉しいときの笑顔は必ず片目をつぶってみせる癖など、よく知っていた。龍一は心から恭子のことを愛おしいと思っていた。しかし付き合いの長さが、むしろ相手を苦しめることになることも大人になった今では分かる。
小さな個室は龍一の思惑で取ってあった。他の客に聞かれたくない話をしなければならなかった。しばらく他愛無い話をして、ビールからワインに切り替えて二度目の乾杯をした時だった。龍一が切り出すよりも先に、恭子がグラスを置いて神妙な面持ちで言った。
「リュウさん。何か私に言いたいことがあるんじゃないの」
「えっ」
図星だった。彼女なりに薄々何かを感じ取っていたのだろうか。やはり以心伝心だった。良くも悪くも。
「なんで分かったの」
「最近のリュウさんを見れば分かるわよ。これだけの付き合いだもの。今日なんかいつもだったらこんな高いお店なんか来ないし。しかもその話の内容は、たぶん...」
たぶんと言ったきり恭子は黙りこくってしまい、下を向いて固まってしまったように見えた。
「恭子。ごめん」
ゆっくり顔を上げた彼女はまっすぐ龍一の目を見据えた。
「ごめんって、何?はっきり言ってもらったほうがいいわ。このところずっと、毎晩眠れなくて、リュウさん変だから。私と話をしていても私の後ろにいる他の誰かに向かってしゃべっているみたいで。心ここにあらずって感じで。私はね、このままずっとリュウさんとは、ずっと...ずっと...このままでいたいと」
恭子の目からみるみるうちに涙が溢れてきた。喉を振り絞るように言った。
「どうして?私じゃだめなの?」

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